伝記
フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエクは、1899年5月8日、オーストリア=ハンガリー帝国のウィーンで学者の家庭に生まれた経済学者・哲学者である。生家のフォン・ハイエク家はボヘミア貴族の家系で、父は植物学者で医師、祖父は博物学者、母方の祖父は統計学者であった。1917年にオーストリア=ハンガリー陸軍に入営し、第一次世界大戦のイタリア戦線で飛行観測手として従軍して左耳を負傷した。1918年にウィーン大学へ入学して、1921年に法学博士、1923年に政治学博士の学位を取り、同年に渡米してニューヨーク大学で研究助手を務めた。1924年にウィーンへ戻ると、ハーバラーやモルゲンシュテルンらと私的なセミナーを開き、ミーゼスに見守られて研究サークルをつくった。1927年にはオーストリア景気循環研究所の所長となり、1929年にはウィーン大学の講師となった。
1931年、ライオネル・ロビンズの要請でロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに講演に呼ばれ、これ以降、同校の教授を18年間務めた。1938年にはイギリスの市民権を取得している。初期の業績は、景気循環に対する貨幣の影響を分析する貨幣的景気循環理論への貢献で知られる。ミーゼスらオーストリア学派の伝統を受け継ぎ、自然利子率と実際の利子率との関係から景気変動を説明するもので、1931年の『価格と生産』が代表作である。この後、ハイエクはケインズと景気循環を巡る論争に入ることになる。1941年には資本蓄積の理論を扱った『資本の純粋理論』を著した。1944年の『隷属への道』では、社会主義、共産主義、ファシズム、ナチズムを同根の集産主義と批判し、当時のベストセラーとなった。また経済計算論争では、計画当局が必要な情報を集めることは不可能で、それを行えるのは分権的な市場メカニズムだけだと主張した。
1947年、リバタリアニズムに立脚する学者が集結したモンペルラン・ソサイエティーを組織して初代会長を務めた。1950年にはシカゴ大学の社会科学・道徳科学教授となり、前妻と離婚してヘレン・ビッターリッヒと再婚した。1955年にはロンドンの経済問題研究所の設立に関与し、同研究所は後のサッチャー革命の理論的拠点となった。1960年に『自由の条件』を発表し、1962年には西ドイツのフライブルク大学の経済政策教授となった。1968年に同大学を退官した後は、9年間オーストリアのザルツブルク大学で教えた。1973年から1979年にかけて『法と立法と自由』全三巻を刊行した。1976年の『貨幣の脱国営化論』では、通貨間の自由競争によって最も健全で安定した通貨が発展するとして、貨幣の脱国営化を提唱した。
1974年にノーベル経済学賞を受賞した。親交のあった田中清玄を、授賞式のメーンテーブルに唯一の日本人として招いたという。本人は現在ではリバタリアニズムの思想家の一人とみなされるが、古典的自由主義者を自称し、エドマンド・バークに倣ってオールドホイッグと呼ばれることを好んだ。人間の理性には限界があるとして、社会を設計できるとする設計主義的合理主義を批判し、自生的秩序の重要性を説いた。1988年に『致命的な思い上がり』を発表し、1991年にはブッシュ大統領から大統領自由勲章を受けた。1992年3月23日、ドイツのフライブルクで逝去した。ブッシュ大統領は直ちに追悼声明を発表し、「現代の最も偉大な思想家の一人」と称した。
同じ年に亡くなった人物
- エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵) (1992年没)
- ジュディス・アンダーソン (1992年没)
- ベップ・ファン・クラフェレン (1992年没)
- フィリップ・チャールズ・ハビブ (1992年没)
- ジャン・アールツ (1992年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴァルター・ペンク (1923年没)
- ベルトルト・フォン・バーデン (1963年没)
- ハインツ・ミュラー (1975年没)
- アルトゥール・フィッシャー (2016年没)
- ゲルハルト・ドーマク (1964年没)