伝記
プムプアン・ドゥアンチャンは、タイの歌手、俳優である。1961年8月4日にスパンブリー県の南にあるソンピーノーン区で生まれ、1992年6月13日に30歳で没した。愛称はプン(蜂の意)で、本名はランプン・リラメーキン、旧姓はラムプン・チットラハーンという。極貧のサトウキビ小作農家の娘として、12人きょうだいの5番目に育った。
幼いころは野菜や花を市場で売り、サトウキビ畑の手伝いに明け暮れた。小学校には時おり通うだけで2年目までしか行かず、タイ文字の読み書きはできなかった。楽譜も読めなかったが、曲の記憶力は卓越しており、一度聴いたフレーズはすぐに再現できたので、歌詞と旋律を覚えるのに支障はなかったという。歌は幼いころから巧く、8歳で地元の歌謡コンテストに優勝した。口減らしも兼ねて、父に連れられバンコクの巡業一座に出され、掃除から始めて裏方、踊り子、漫談と下積みを重ねて歌手になった。バンコクへ出た時期については、1975年、14歳のときとする資料もある。腕を上げるにつれ、場末の酒場から、当時のタイでキャバレー形式の店を指したカフェーへと舞台を広げた。
1977年、15歳のときに、トップライン・ミュージックからレコードデビューした。曲は「彼氏を待つグラス」だったが、これはグループ名義で、一人の歌手としての売り出しではなかった。翌1978年、田舎歌謡ルクトゥンの師匠モン・ムアーンヌアに弟子入りし、師から「プムプアン・ドゥアンチャン」の名を授かった。プムプアンは姫、ドゥアンチャンは月を意味し、「月の歌姫」ほどの意味である。ずば抜けた歌唱力で徐々にファンを増やし、地方ラジオ局への出演と各地の巡業で人気を広げた。国民のほとんどに知られた最初の大ヒットは、1983年の「田舎で会いましょう」である。翌1984年の「田舎娘の恋人への願い」など、出す曲の多くが大ヒットし、国民的な人気歌手となった。同じ1984年に元俳優のクライソーン・リラメーキンと結婚して男児をもうけた。映画やテレビドラマにも多数出演し、日本人の間では「タイの美空ひばり」と呼ばれた。
軽快なポップス調と叙情的なルクトゥンの両方を得意とし、アップテンポの曲やモーラムの語り口、ストリングス、ファズギター、シンセサイザーを取り入れて、後のルクトゥンに大きな影響を与えた。王室からはメダルを授かり、1991年にはタイの白象勲章を受けた。1978年の金色のアンテナ賞に加え、1989年と1991年には半世紀にわたるルクトゥン賞の第1回と第2回を受けた。シリントーン王女の作詞作曲とされる「ソムタム」も賜って代表曲のひとつとなった。1986年1月18日には、上流階級が集まるドゥシタニ・ホテルで、同ホテル史上初のルクトゥンの公演を開いた。ラーマ10世の長女パチャラキティヤパー王女も来場し、観客を驚かせたという。身体の不調の中で気力で舞台をやり遂げ、のちに語り継がれる公演になったが、その後は人前で歌うことがなくなった。
晩年は夫との仲が疎遠になり、独学でタイ文字を学び始めたが、読み書きが難しいのに乗じて夫が財産を夫名義に書き換え、個人資産を失ったとされる。健康を害し、病院に運ばれても治療費の支払いに事欠くこともあった。全身性エリテマトーデスによる腎臓の合併症(他説もある)で病院を転々とし、ピッサヌロークのブッダチナラート病院で亡くなった。葬儀には10万人から20万人が集まったとされる。2009年8月には国から芸術家として表彰され、毎年6月13日から17日には、故郷のスパンブリー県の寺院で記念式典が開かれている。
同じ年に亡くなった人物
- ゾーヤ・ヴォスクレセンスカヤ (1992年没)
- フアン・ゴメス・ゴンサレス (1992年没)
- 鄧穎超 (1992年没)
- マルグレーテ・ア・ダンマーク (1895-1992) (1992年没)
- ネヴィル・ブランド (1992年没)
同じ地域に関係する人物
- ボーロマトライローカナート (1488年没)