伝記
ヴィリー・ブラントは、1913年12月18日、ドイツ北部のリューベックで生まれた。本名はヘルベルト・エルンスト・カール・フラームといい、出生登録簿には母マルタ・フラームだけが記された婚外子であった。近所のルター派教会は私生児であることを理由に洗礼を拒み、母は離れた聖ローレンツ教会で1914年2月26日に洗礼を受けさせた。母方の祖父ルートヴィッヒはトラック運転手として働きながら父親代わりとなり、社会主義的な労働運動への道を開いた人物である。実の父がヨーン・メラーという人物だと本人が知ったのは戦後のことで、その父はすでに1958年にハンブルクで亡くなっていた。出生を政敵に揶揄されることもあったが、ブラントはごまかそうとせず、かえって周囲の評価を高めたという。
学業に優れ、労働者の子弟で高等教育機関に進める者がごく僅かだった1920年代にレアール・ギムナージウムへ進み、1932年2月にアビトゥーア試験に「秀」で合格した。政治との関わりは早く、14歳で社会主義労働者青少年団に加わり、16歳の1929年にはリューベックの機関誌『民衆の使者』に記事を寄せた。翌1930年、17歳でドイツ社会民主党に入党し、同紙の編集長ユリウス・レーバーの影響を受けた。しかし急進左派であったため、1931年10月にレーバーや党と決別してドイツ社会主義労働者党に入党し、党の奨学金を受けられなくなって大学進学を諦め、地元の造船所で働いた。
1933年1月30日にナチス政権が誕生し、国会議事堂の炎上後には諸党の活動が禁じられた。党員の一部はドレスデンで秘密裡に集まって党の存続を決め、事務所をノルウェーのオスロに置くこととしたが、責任者が直後に逮捕されたため、まだ20歳前のブラントがその任に送り込まれた。4月初めに船でドイツを離れた時、持ち物は下着数枚と『資本論』第1巻、祖父がくれた100マルクだけで、祖父との別れはこれが最後となった。オスロではノルウェー事務所を設け、青年同盟の活動をまとめる任務に当たり、ノルウェー労働党から経済的な支援を受けた。滞在許可には政治活動をしないという条件が付いていたが従わず、さまざまなペンネームで寄稿を続けてジャーナリストとして活躍し、この頃から「ヴィリー・ブラント」を名乗った。
1936年には偽造パスポートでベルリンに潜入し、ノルウェー人になりきってノルウェー語なまりのドイツ語を話した。1937年2月にはスペイン内戦の取材に赴き、左翼陣営内の争いとコミンテルンの横暴を目にして、同年6月のパリの会議で厳しく非難した。この経験は、急進派だったブラントが社会民主主義の主流派へ再び近づく重要な契機となり、ノルウェー労働党の改革政策からも多くを学んだ。1938年にドイツ国籍を剥奪されてノルウェー国籍を取得し、1939年8月に独ソ不可侵条約を知ると、党首に宛てた手紙でソビエトをヒトラーと並ぶ反動勢力だと非難した。
戦後は西ドイツの社会民主党に戻り、西ベルリン市長として1958年のベルリン危機と1961年のベルリンの壁建設に対処し、1964年に党首となった。1966年の大連立内閣で外相を務め、1969年秋に自由民主党と連立を組んで首相に就任した。積極的な東方外交で東西の緊張緩和を進め、東ドイツとは基本条約を結んで、1971年にノーベル平和賞を受けた。1974年、秘書のギュンター・ギヨームが東ドイツ国家保安省のスパイと発覚したギヨーム事件により首相を辞任した。その後は社会主義インターナショナル議長を1976年から1992年まで務め、同年10月8日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ポール・ヘンリード (1992年没)
- ジェイムズ・エドウィン・ウェッブ (1992年没)
- デニス・ハルム (1992年没)
- Francisco Urroz (1992年没)
- エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵) (1992年没)
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