伝記
サタジット・レイは、1921年5月2日にカルカッタ(現在のコルカタ)で生まれたインドの映画監督である。ベンガル語ではショットジット・ライと発音される。祖父は著名な児童文学作家で、子供向け雑誌の発行や印刷会社の設立も手がけ、ブラフモ・サマージの指導者として詩人タゴールの一家とも親しかった。父シュクマルもベンガル語児童文学の先駆的な作家だったが、サタジットが3歳のときに亡くなり、母スプラバのわずかな収入で親戚の家に身を寄せて暮らすことになった。経済学の学士号を取ったが関心は美術と西洋音楽にあり、1940年には母の勧めとタゴールへの敬意から、タゴールが設立したビシュバ・バラティ大学の美術学科に進んだ。そこで東洋芸術に触れ、アジャンターやエローラの石窟群を訪れて大きな刺激を受けている。
1943年にイギリス系広告会社D・J・キーマー社へグラフィックデザイナーとして就職し、のちに新設の出版社でも書籍の表紙デザインを任された。ビブティブション・ボンドパッダエの小説を子供向けに改訂した本の挿絵に深く感銘を受け、後に自身の初監督作の題材に選んでいる。1947年には友人らとカルカッタ最初のシネクラブを設立し、『戦艦ポチョムキン』などのヨーロッパ映画を上映しながら映画を学んだ。1949年に従姉の恋人と結婚し、同じ年、ジャン・ルノワールが『河』の撮影で訪れると、ロケ地探しを手伝い、映画化の構想を話して励まされた。翌1950年、会社からロンドン勤務を命じられた約6か月の間に99本の映画を観て、デ・シーカ監督の『自転車泥棒』に強い衝撃を受け、劇場を出るときには映画監督になると決めていたという。
帰国後、ボンドパッダエの教養小説『大地のうた』の映画化に取りかかったが、どのプロデューサーも関心を示さず、生命保険から資金を出して1952年に撮影を始めた。スタッフはほとんどが未経験者で、俳優も大半が素人だった。資金が尽きて約1年半中断したが、西ベンガル州首相ビダン・チャンドラ・ロイの計らいで政府から融資を受けた。政府はハッピーエンドを求めたが、サタジットは拒んだ。1954年にはニューヨーク近代美術館のウィーラーにフィルムの一部を見せ、仕上げ資金を得た。3年がかりで完成した作品は1955年5月に同美術館で初公開され、8月にインドで公開されて、翌年の第9回カンヌ国際映画祭でヒューマン・ドキュメント賞を受けた。続編の『大河のうた』はヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受け、1959年の『大樹のうた』でオプー三部作が完結した。
その後も『音楽サロン』『女神』『チャルラータ』など、ベンガル人の社会や生活を題材にした作品を撮り続けた。1960年の『女神』はヒンドゥー教側から攻撃されて国外輸出を禁じられたが、作品を見たネルー首相の計らいで禁が解かれ、カンヌ国際映画祭に出品された。翌1961年にはネルーの依頼で、タゴール生誕100年を記念するドキュメンタリーも撮影している。1961年には祖父が出版し、父の死で途絶えていた子供向け雑誌『ションデシュ』を再刊行し、イラストや小説、詩を寄せた。やがて執筆は主な収入源にもなった。映画では脚本、キャスティング、作曲、編集、広告のデザインまで自らこなした。生涯に36本の映画を監督し、1992年にはアカデミー名誉賞とインドの民間人最高の賞バーラト・ラトナを授けられた。同年4月23日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- リチャード・ハント (人形使い) (1992年没)
- Osvaldo Alfredo Reig (1992年没)
- サミュエル・I・ハヤカワ (1992年没)
- エディ・ヘイゼル (1992年没)
- カール・カルステンス (1992年没)
同じ地域に関係する人物
- ネリー・セングプタ (1973年没)
- アリーヴァルディー・ハーン (1756年没)
- タラションコル・ボンドパッダエ (1971年没)
- Mangal Pandey (1857年没)
- レスリー・クラウディウス (2012年没)