伝記
フェリックス・ウフェ=ボワニは、1905年10月18日、コートジボワール中央部のンゴクロに生まれ、同国の初代首相、初代大統領を務めた政治家である。誕生日は公式の伝記によるもので、当時はバウレ人の間に戸籍がなく、実際は1905年より前だった可能性が高い。アニミズムを信じる氏族の出で、はじめはディアと名づけられた。ウフェ=ボワニの名のうち「ウフェ」は、先に生まれた子が相次いで亡くなった家の子に与える名で、「ボワニ」はバウレ語で破城槌を意味する。1910年に村の長が殺されると、幼いディアが後を継ぐ立場となったが、年少のため、継父が摂政を務めた。植民地当局の命令で、軍の駐在所の学校に通い、1915年にビンゲルヴィルの高等小学校に進んだ。この年にキリスト教に改宗し、フェリックスの洗礼名を受けた。優秀な学生で、1919年に師範学校に入り、1921年には医学校に移って、1925年に首席で卒業した。
1925年10月に、アビジャンの病院で補助医師の仕事を始め、現地人の医療職員の協会を設立した。植民地当局はこれを組合とみなして、彼を僻地に転勤させた。それでも専門職としての能力を示し、1929年には、それまでヨーロッパ人に限られていた職に昇進した。アベングルで、植民者に搾取されるカカオ農民の不当な扱いに直面し、1932年にアフリカ人の農園主たちの運動を率いた。故郷の部族から、村長の地位に就くよう求められたが、弟に譲った。第二次世界大戦後、フランスの憲法制定議会の議席がコートジボワールに割り当てられると、選挙に出馬して、オートボルタのモシ人の候補を僅差で破り、議員となった。翌1946年4月に政党を設立して党首となり、同年10月には、フランス領西アフリカと赤道アフリカの政治家を集め、アフリカ民主連合を結成して総裁になり、独立運動を主導した。
親仏的な立場から、フランス本国でも大臣を歴任した。独立が現実的になると、各植民地の分離独立を主張し、フランス領西アフリカの連合した独立を唱えるマリのモディボ・ケイタと対立した。この対立はウフェ=ボワニの勝利に終わり、1959年5月1日、独立国コートジボワールの首相となり、新憲法のもと、1960年8月から11月まで初代首相、11月から1993年12月まで初代大統領を務めた。1960年を境に、アフリカのフランス領の諸国は、相次いで独立した。独立すると、コートジボワール民主党の一党独裁体制を敷き、共産主義者を弾圧して、フランスとの緊密な関係を保った。1980年代まで、ソ連や中国と国交を結ばなかった。
経済では、主要産業のカカオの生産と流通を管理し、輸出安定化基金を設けて価格を安定させ、近隣諸国からの移民を受け入れて、生産を拡大した。1980年代まで、年率8パーセントの高成長を実現し、「イボワールの奇跡」と呼ばれた。だが、カカオに頼りすぎたモノカルチャー経済は、1980年代以降の生産過剰で基盤が崩れ、社会不安が増した。故郷には新首都ヤムスクロを建設したが、ジャングルの中に大聖堂などの巨大な建造物が並ぶだけで、首都機能はアビジャンに残った。1990年に、複数政党制による初の大統領選で圧勝して7選されたが、任期中の1993年12月7日に死去した。死後、政策の矛盾が表面化し、国は内戦へ向かった。アビジャンの国際空港は彼の名を冠している。
同じ年に亡くなった人物
- モハマッド・ナシール (1993年没)
- Hector De Bourgoing (1993年没)
- ウィリアム・バーガー (1993年没)
- エヴェリン・ホール (1993年没)
- ヴァレンティナ・グリゾドゥボワ (1993年没)
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