HISTORICAL PERSON · 1993年没

パブロ・エスコバル

コロンビアの犯罪者で、メデジン・カルテルの創設者。1980年代から90年代初頭に米国でのコカイン取引を独占し、史上最も裕福な犯罪者とみなされた。

生涯
1993年没
死亡地
コロンビア共和国(アンティオキア県 / メデジン)
出生地
コロンビア共和国(リオネグロ)
出典
世界地図
コロンビア共和国(アンティオキア県)

伝記

パブロ・エミリオ・エスコバル・ガビリアは、1949年12月1日、コロンビアのアンティオキア県リオネグロに生まれた犯罪者で、「麻薬王」と呼ばれた。メデジン・カルテルの創設者であり、最大の首領だった。7人兄弟の3番目で、父アベルは農夫、母エルミルダは小学校の教員だった。メデジンの近郊で育ち、メデジンのラテンアメリカ自治大学で学んだが、卒業せずに中退した。10代のころに墓石を盗んで磨き、地元の密輸業者に転売したのが、犯罪経歴の始まりとみられている。ほかに、偽造した卒業証書の販売にも手を染めたという。やがて仲間と手を組み、路上の詐欺や、禁制の煙草と偽の宝くじの販売、自動車の窃盗などに関わった。1970年代初頭には、泥棒兼用心棒として活動し、政府高官を誘拐して身代金を得たといわれる。

メデジン周辺で暗躍していた密輸業者の下で働きはじめ、26歳のころには、1億ペソ(300万ドル以上)の銀行預金を持っていたという。1975年ごろからコカインの稼業を展開し、コロンビアからパナマを経由して、アメリカ合衆国へ至る密輸経路を確保し、航空機を何度も飛ばした。1976年5月、部下数名とともに、エクアドルからコカインを持ち帰る途中で逮捕された。買収しようとした裁判官は応じず、法廷での論争のあと、自分を逮捕した警官を殺すよう命じた。その後、事件は不起訴となった。これが、賄賂と殺人で当局に対処するやり方の始まりとなった。1976年に粉状のコカインを流通させるメデジン・カルテルを組織し、アメリカでコカインの需要が急に伸びると、南フロリダやカリフォルニアなどに、密輸の経路と流通網を手配した。バハマ諸島の島を開発して、コカインの新しい輸送地とし、1980年代には、月に70トンから80トンのコカインを、アメリカへ送ったと推定されている。莫大な利益で、アンティオキアに広大な土地を買い、「アスィエンダ・ナポレス」を建設して、動物園や湖、闘牛場をそなえた。純資産は推定300億ドルに上り、史上最も裕福な犯罪者とみなされている。

敵対する麻薬カルテルとの抗争が絶えず、警察官や裁判官、地元住民、著名な政治家らの殺人や暗殺を主導し、コロンビアを殺人が跋扈する国に変えた。1982年のコロンビアの下院議会選挙では、政党から出馬して、補欠議員に当選した。政治家となると、住宅やサッカー競技場の建設といった地域の事業を担当し、地元の人々の間で人気が高まったが、政治的な野心はコロンビア政府とアメリカ政府に妨害された。1985年11月6日の、ボゴタの最高裁判所が襲撃された事件では、エスコバルが武装組織に100万ドルを提供したとされる。1989年11月27日のアビアンカ航空203便の爆破事件は、エスコバルが指揮したと広く信じられている。のちの大統領セサル・ガビリアが搭乗する予定で、標的にされたが、彼は乗っておらず、110人が殺された。

1991年に当局に自首し、5年の禁錮刑を言い渡されたが、ガビリアと身柄引き渡しを禁じる取り決めを結び、自ら建設した快適な刑務所「ラ・カテドラール(大聖堂)」で暮らした。当局がより刑務所らしい施設に移そうとしたため、1992年に脱走して潜伏し、コロンビア全土で追跡が始まって、組織は瓦解した。1993年12月2日、44歳の誕生日の翌日に、故郷のメデジンで、国家警察の特殊部隊との銃撃戦の最中に死亡した。貧しい人々の暮らしの便宜も図ったため、「ロビン・フッドのような存在」と考える住民もおり、葬儀には2万5000人を超える人々が参列した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物