伝記
ズヴィアド・ガムサフルディアは、1939年3月31日に、ソ連のグルジア(現在のジョージア)の首都トビリシで、ズグディディ出身の名門の家に生まれた、政治家、作家、文学者である。ミングレル系である。父は、20世紀の最も著名なグルジアの作家の一人で、グルジア民主共和国の外交官も務めた、アカデミー会員のコンスタンティネ・ガムサフルディアであった。トビリシ大学の西欧言語学部を卒業し、言語学を学んだのち、翻訳者や文芸批評家の道に進んだ。ガムサフルディアは、グルジアで最初に民主的に選ばれた大統領だが、独裁者とも評される。
スターリンがグルジア人であったにもかかわらず、あるいはそのために、1950年代のソ連の当局は、フルシチョフ政権のもとで、グルジアの文化の表現を抑えようとした。1955年に、ガムサフルディアは、古代のグルジア王ヴァフタング・ゴルガサリにちなんで名づけた、非合法の青年グループを作り、人権侵害についての報告書を回覧させようとした。1956年には、ロシア化政策に反対するトビリシのデモで逮捕され、1958年にも、反ソ連の資料を配って再び逮捕され、精神科病院に6か月収容された。政治的な目的のために精神医学を使った、ソ連の政策の多くの被害者の一人となった。1965年から教会の活動に参加し、トビリシのシオニ教会会議の議員となった。1970年代の初めからグルジア作家連盟の会員で、1973年に文献学の博士号を得た。
1974年からモスクワの人権擁護家と関係を保ち、人権擁護の会報に、グルジア国内の事件を定期的に載せた。同年、「グルジア人権擁護イニシアチブ・グループ」を創設し、国際アムネスティのソビエト・グループの会員となった。グルジア人で初めてのアムネスティ・インターナショナルの会員であった。1975年5月からは、ジョージア語の文学雑誌「金の羊毛」の編集長となり、1976年からは、メラブ・コスタワと共同で、もう一つの雑誌「グルジア通報」を発行した。1976年にグルジア・ヘルシンキ・グループの会員となった。しばしば嫌がらせを受け、ときには逮捕されたが、一族の名声のためか、長く重い刑は免れた。1977年4月7日にコスタワと共に逮捕され、1978年夏にダゲスタンへ2年間の追放の刑を宣告されたが、1979年6月に特赦を受けた。帰国後は、グルジア科学アカデミーのグルジア文学研究所で、先任科学職員として働いた。
1988年から1991年に、聖イリヤ・プラヴェドヌイ協会の共同議長、「円卓-自由グルジア」の指導者となった。1990年11月にグルジア最高会議議長となり、1991年5月26日に初代のグルジア大統領に選ばれた。民主派、改革派として経歴を重ねたが、政権を握ると、次第に独裁的な手法に終始し、野党からは独裁者と非難された。1992年1月6日、クーデターによりグルジアから追放され、チェチェンに亡命した。1993年9月に帰国したが、同年12月31日、グルジア西部のサメグレロで死亡した。遺体は、頭に2発の銃弾が当たった状態で発見され、暗殺や自殺、戦闘に巻き込まれた死など、いくつかの説がある。2007年に墓の場所が明らかになり、遺体はグルジアに運ばれて、改葬された。近年、グルジアを分裂から救おうとした愛国者として、名誉が回復されている。
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