伝記
パット・ニクソン、本名テルマ・キャサリン・ニクソンは、旧姓をライアンといい、1912年3月16日にネバダ州エリーで生まれた。アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンの妻で、1969年から1974年までファーストレディを務めた。聖パトリックの祝日の前日に生まれたため、アイルランド系の父ウィリアムが、「パット」の愛称で呼んだ。母はドイツ系で、ケイト・ハルバーシュタットといった。一家は間もなくカリフォルニアに移り、ロサンゼルス近郊で市場向けの小さな農園を営んだ。母は癌で亡くなり、パットは、まだ12、13歳のうちに、父と二人の兄のために、家事をこなすようになった。1930年、18歳のときに、父が病気で数か月の看病の後に亡くなった。この時期は、一家の農場と、地方銀行で受付と記帳の仕事をして働いた。
1929年に高校を卒業してフラートン短期大学に入り、運転手やX線技師、薬剤師、タイピストなど、さまざまな仕事で学費を稼いだ。勉学を続けることを決意し、南カリフォルニア大学に進んで、通いながらデパートの販売員や、映画のエキストラなどのパートタイムの仕事をした。1935年の映画に、通行人として出演する姿が見られる。1937年に優等で卒業し、教師の資格も得た。「パット・ニクソンほど結婚前に働いていたファーストレディはわずかである」と言われる。カリフォルニア州ウィッティアーの高校で教え、第二次世界大戦中は、政府の経済担当官として働いた。
ウィッティアーで、デューク大学を出た若い弁護士リチャード・ニクソンと出会った。二人は小劇場の演劇の集まりで、同じ劇に出演した。彼は初対面のとき、彼女に結婚してほしいと切り出したという。のちに彼女は、「彼は頭がおかしいのかと思った」と語っている。二人は1940年6月21日に、カリフォルニア州リヴァーサイドのミッション・インで結婚した。彼女は、「彼には活力と野心があった」から惹かれたと述べている。ニクソンは第二次世界大戦中に海軍で勤務し、1946年に政界入りすると、彼女は選挙運動で彼の側に立った。同じ年に娘のトリシアを、1948年に娘のジュリーを出産した。ニクソンが副大統領になり、外遊した際には同行し、ベネズエラで暴徒に遭遇したこともあった。
ファーストレディとなった彼女は、自ら「ボランティア精神」と呼ぶ活動に時間を使い、個人の手紙に返事を書いた。ジャクリーン・ケネディのように、大統領官邸を工芸品で飾ることに関心を抱き、600を超える絵画や家具を、ホワイトハウスのコレクションに加えた。オペラからブルーグラスまで、様々なアメリカの伝統芸能を、ホワイトハウスで開催し、1972年にはカーペンターズも出演した。大統領の公式訪問に同行し、1972年の中華人民共和国への歴史的訪問や、ソ連での首脳会談にも加わった。80か国ほどを訪れ、ファーストレディとして最も多く外国を訪れ、1969年7月には、南ベトナムの戦闘地域に降り立った初めてのファーストレディとなった。1974年8月、ニクソンは大統領を辞任した。彼が辞任演説を行っている間、彼女は階上で荷造りをしていた。8月9日にホワイトハウスを去り、カリフォルニア州サン・クレメンテに転居した。引退後は健康を損ね、1976年と1982年に脳血管障害の発作を起こした。長年のヘビー・スモーカーで、肺癌と診断された。1993年6月22日、ニュージャージー州パークリッジの自宅で、81歳で死去した。夫は10か月後に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- クレア・デュ・ブレイ (1993年没)
- ケネス・E・ボールディング (1993年没)
- ポリカプ・クッシュ (1993年没)
- ボードゥアン1世 (ベルギー王) (1993年没)
- ジーン・ネグレスコ (1993年没)
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- ハル・ハイグ・プリースト (2001年没)
- ジェームズ・レブホーン (2014年没)
- ジェームズ・ガーフィールド (1881年没)
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