伝記
エーリヒ・アルフレート・ハルトマンは、1922年4月19日に生まれ、1993年9月20日に没したドイツ空軍の軍人である。第二次世界大戦時のドイツ空軍のトップ・エースで、史上最多の撃墜記録を持つ。独ソ戦で撃墜を重ね、1944年8月25日に300機撃墜を達成した。総出撃回数は1405回、うち825回の空戦で、最終的な撃墜数は352機、被撃墜は16回である。機首に黒いチューリップ風の印を描いたことから、ソ連空軍に「黒い悪魔」と恐れられた。
ドイツ南部のヴュルテンベルク州ヴァイスザッハに、医者の息子として生まれた。敗戦後の貧困を避け、医師の父は中国に渡って開業したため、7歳で現地の外国人排斥の暴動が起きるまで、湘江を望む地で暮らした。帰国後は飛行機好きの少年として育った。母が趣味で小型のスポーツ機を操縦し始めたことで、飛行機は身近な存在となった。1936年に母がグライダークラブを設立し、ハルトマンも14歳でグライダーの免許を取った。高校で、のちに生涯をともにするウルスラ・ペーチュと知り合い、一目惚れしたという。正義感が強く、これはのちに、戦友や市民を捨てて安全な地へ撤退せよという命令を拒否させ、ソ連での抑留の原因にもなった。
1940年10月、18歳で空軍に入隊した。訓練中、標的射撃で50発中24発を命中させる優れた射撃技術を見せたが、軍隊の規律にはなじめず、衝動的な性格とされ、昇進は当初遅れがちだった。1942年10月に東部戦線の第52戦闘航空団に配属され、以後、敗戦までほとんどの期間をこの部隊で過ごした。11月5日に初撃墜を記録した相手は、「空のコンクリート・トーチカ」と呼ばれたソ連の対地攻撃機だった。「機首下面の冷却器が弱点」という先輩の教えを思い出し、下方に潜り込んでその部分を撃ち抜いたが、落ちていく敵機の破片を浴びて自機も墜落した。復帰後はベテランの2番機を務めて経験を積み、「観察、決定、攻撃、反復」の戦法を確立していった。
1943年7月のクルスクの戦いの航空戦で、一気に撃墜数を伸ばし、8月3日に50機に達した。9月に第9中隊長に任命されて中尉に昇進し、9月20日に100機撃墜を達成、10月に騎士鉄十字章を授与された。僚機を大切にする戦闘法を集団戦闘に応用し、彼が率いた中隊は「エキスパート中隊」とも呼ばれた。1944年3月、202機撃墜でヒトラー自身から柏葉付騎士鉄十字章を授与された。8月24日に撃墜数が301機に達し、翌日、柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を授与された。この時、戦闘機隊総監は、ジェット戦闘機の実験隊への転属を求めたが、ハルトマンは断った。9月10日には、幼なじみの恋人ウルスラと結婚式を挙げた。1945年5月8日にソ連機を1機撃墜し、通算352機とした。同日ドイツが降伏して、戦いは終わった。一度も僚友を戦死させず、自身も一度も負傷しなかったという。
部下や避難民を見捨てて自分たちだけが戻ることをよしとせず、アメリカ軍に投降したが、5月24日にソ連へ引き渡され、戦争犯罪人として25年の重労働の判決を受けた。ソ連側は、情報提供や自白書類への署名を迫り、ハルトマンは断固として拒否した。1955年に、アデナウアー首相のソ連訪問で、抑留者全員の釈放が申し入れられ、10年半、11か所の収容所を経て釈放された。西ドイツに帰ると、再結成された連邦空軍に入隊し、1958年に第71戦闘航空団の司令に就いた。しかし、F-104の導入に強く反対して上層部と対立し、1970年9月30日に48歳で退役させられた。
同じ年に亡くなった人物
- オードリー・ヘプバーン (1993年没)
- ヤヌス・シドウォ (1993年没)
- モムチロ・ガヴリッチ (1993年没)
- ジミー・ドーリットル (1993年没)
- リエン・ヒソルフ (1993年没)
同じ地域に関係する人物
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- ホルスト・フランク (1999年没)
- ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン (1927年没)
- カール・グロース (1946年没)
- パウル・バーダー (1971年没)