伝記
ジェームス・サイモン・ウォリス・ハントは、1947年8月29日に生まれ、1993年6月15日に没したイギリス出身の元レーシングドライバーである。1976年にF1のワールドチャンピオンを獲得し、2014年1月に国際モータースポーツ殿堂入りを果たした。長身、ブロンドの長髪、ハンサムな顔立ちと、ロックスターのような風貌の持ち主だった。
株式仲買人の父を持つ裕福な家庭に生まれ、8歳の頃から寄宿学校で生活した。学生時代はさまざまなスポーツで活躍し、テニスやスカッシュの選手としても優秀だった。医師になることを期待されていたが、18歳のときに初めてモータースポーツに出場し、その世界で生きることを決めた。家族はレース活動に反対し、援助もなく、貧しい下積み時代を送った。ジュニアフォーミュラの時代には、しばしば自分のマシンを壊したため、姓の韻を踏んで「ハント・ザ・シャント」、つまり「壊し屋ハント」というあだ名で呼ばれた。しかし、レース好きの貴族、ヘスケス卿が立ち上げたチームに加入したことが転機となり、活躍し始めた。F3、F2を経て、そのチームとともにF1へステップアップし、オランダGPで初優勝を達成した。これがこのチームの唯一のF1勝利となった。チームが資金難で撤退したためシートを失ったが、エマーソン・フィッティパルディの後任として、マクラーレンへの加入が決まった。
1976年は、マクラーレンのM23との相性もよく、優勝を2度、失格処分で取り消されながらも、フェラーリのニキ・ラウダとチャンピオンを争った。ラウダがドイツGPの炎上事故で欠場する間にポイント差を詰め、最終戦の日本で逆転し、ドライバーズ・チャンピオンに輝いた。このレースは雨の悪条件で、ラウダは自らリタイアし、ハントは上位を走っていたが、タイヤが消耗して、残り数周でピットインを強いられた。順位を落としてタイトルを失ったと思い、ゴール後にチーム関係者に怒鳴りかかったが、そこで初めて自分がチャンピオンだと知らされたという。悪天候で運営が混乱し、上位の順位が錯綜していたためである。
1977年はシーズン途中から投入した新型のM26で3勝を挙げたが、タイトルはラウダに奪還された。この年の日本グランプリでは優勝したが、レース後の表彰式をすっぽかして帰ってしまった。これがハントにとってF1最後の勝利となった。1978年は、マクラーレンが当時のF1界を席巻しつつあったグラウンド・エフェクト・カーの開発に乗り遅れたため、成績が下降し、ランキング15位に沈んだ。1979年からウルフに移籍したが、マシンの性能の低さに失望し、第7戦モナコGPのリタイアを最後に、現役引退を表明した。「いまのF1は、ドライバーの能力なんて添え物でしかないという結論に至った」と述べている。
引退後は、イギリスの放送局のF1解説者となり、歯に衣着せぬ辛口ぶりで人気を博した。ラウダとは対照的な人柄だったが、二人はF3時代から馬が合い、安アパートに同居したこともあり、互いに実力を認め合う好敵手だった。結婚には二度失敗し、酒とドラッグに溺れる時期もあったが、晩年の3年間は心身ともにクリーンだったと、自ら告白している。1993年、ウィンブルドンの自宅で、心臓発作のため45歳で急逝した。死の数時間前まで、いつものように友人に冗談を飛ばしていたという。2013年には、1976年シーズンのハントとラウダのライバル関係を描く映画が公開された。
同じ年に亡くなった人物
- フレヤ・スターク (1993年没)
- 本多猪四郎 (1993年没)
- ジャハンギール・ラタンジ・ダーダーバーイ・タタ (1993年没)
- フランク・ザッパ (1993年没)
- レイ・ギラン (1993年没)
同じ地域に関係する人物
- マリーア・カテリーナ・ブリニョーレ・サーレ (1813年没)
- サンディ・デニー (1978年没)
- John Disley (2016年没)
- フェルディナン・ドルレアン (アランソン公) (1910年没)
- ジル・エズモンド (1990年没)