伝記
ジョーゼフ・リーオ・マンキーウィッツは、1909年2月11日、ペンシルベニア州ウィルクスバリに、ユダヤ系移民の子として生まれた映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。父フランツと母ヨハンナは、それぞれドイツとクールラントからの移民だった。兄のハーマンは、のちに脚本家となった。4歳でニューヨークに移り、1924年に高校を卒業した。兄の後を追ってコロンビア大学に進み、精神科医を志したが、物理学で落第し、英語に専攻を移した。1928年に卒業すると、ドイツに渡り、シカゴ・トリビューン紙の助手の特派員として働き、パリでは「人生で最も惨めな3か月」を過ごしたと語っている。またウーファ撮影所で、ドイツ製サイレント映画に、アメリカの観客向けの字幕をつける仕事もした。落ち込んだ手紙を受け取った兄に、ハリウッドへ来るよう勧められた。
1929年にパラマウントに雇われ、20歳で、同社で最年少の専属ライターとなった。8週間で複数の映画の字幕を書き、のちに台詞も書いて、脚本家としての評価を得た。22歳で、アカデミー脚色賞にノミネートされた。1930年代には、MGMに移り、プロデューサーとしてスペンサー・トレイシー主演の『激怒』、キャサリン・ヘプバーンの『フィラデルフィア物語』『女性No.1』などの大ヒット作を世に出して、敏腕プロデューサーとして名をあげた。1943年、ジュディ・ガーランド主演のミュージカルの映画化を企画した際に、ガーランドと恋に落ち、ともに既婚者だったため、ルイス・B・メイヤーの反感を買い、MGMを離れた。1944年に20世紀フォックスに移り、グレゴリー・ペック主演の『王国の鍵』で、製作と脚本を担当した。
監督志望だったマンキーウィッツは、1946年に、病気で降板したルビッチに代わってメガホンを取り、『呪われた城』で監督としてデビューした。脚本家として培った、洗練された台詞回しと、知的で文学的な雰囲気の作風で、『幽霊と未亡人』や『他人の家』などを発表して、高い評価を得た。1949年の『三人の妻への手紙』と1950年の『イヴの総て』で、アカデミー監督賞と脚色賞を、それぞれ2回ずつ受賞した。『イヴの総て』は、アカデミー作品賞にも輝いた。1950年からは、全米監督協会の会長を務めたが、革新的な考えのため、セシル・B・デミルら超保守派から猛反発を受けた。その後も、1953年の『ジュリアス・シーザー』、1954年の『裸足の伯爵夫人』、1955年の『野郎どもと女たち』、1959年の『去年の夏突然に』などを手がけた。
1963年の大作『クレオパトラ』は、主演のエリザベス・テイラーが病気で倒れ、配役も変更されるなど、事故が相次いで、撮影が進まなかった。製作会社を倒産の危機に陥れる大赤字となり、ハリウッド史上空前の失敗作とされた。マンキーウィッツは敬遠され、仕事の依頼は激減した。1972年にローレンス・オリヴィエとマイケル・ケインを主演に迎えた『探偵スルース』を発表し、高く評価されて、アカデミー監督賞に再びノミネートされた。これが遺作となった。1993年2月5日、ニューヨーク州ベッドフォードで、83歳で亡くなった。息子のトムは、脚本家、映画監督として、007シリーズの脚本家で知られる。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン・コー (1993年没)
- タチアナ・ニコラーエワ (1993年没)
- イヴリン・ヴェナブル (1993年没)
- ウォルフガング・ロッツ (1993年没)
- エジバウド・マルティンス・ダ・フォンセカ (1993年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘンリー・アラン・グリーソン (植物学者) (1975年没)
- テリー・ソーチャック (1970年没)
- ウォルター・ベッカー (2017年没)
- モリス・ローゼンフェルド (1923年没)
- アレクサンダー・イミック (2014年没)