HISTORICAL PERSON · 275年没

サモサタのパウロス

260年から268年までアンティオキア総主教を務めた。単一神論の教えで教会内の強い反対を受け、パウロス派の異端の名の由来となった。

生涯
275年没
死亡地
—
出生地
トルコ共和国(アドゥヤマン県 / サモサタ)
出典
世界地図
トルコ共和国(アドゥヤマン県)

伝記

サモサタのパウロス(パウルス)は、200年ごろに生まれ275年に没したとされるアンティオキアの総主教で、後に彼の名で呼ばれるパウロス派という異端の源となった人物である。サモサタの生まれで、家柄は卑しかったという。260年にアンティオキアの総主教に選ばれ、世俗の官職である年俸二百セステルティウムの代官(プロクラトル・ドゥケナリウス)も務めていた。

彼の教えは、神の唯一性を強調する単一神論(モナルキアニズム)の一形態で、養子論の傾向も帯びていた。イエスは単なる人間として生まれたが、神のロゴス(言葉)を注がれたのだと説き、イエスを「人となった神」ではなく「神となった人」と見た。スポレトのサビヌスに宛てた『論説』の断片が残り、そこでは、イエスが聖霊による油注ぎを受けてキリストの称号を得たこと、罪を免れ、善い行いの歩みを通じて神と意志と働きを一つにしたことが述べられている。この教えは教会内に強い反発を招き、彼は大規模な汚職でも非難された。

エドワード・ギボンは、パウロスの富は父祖の遺産でも正直な稼ぎでもなく、教会の務めを実入りのよい職業とみなして信徒から繰り返し献金を取り立て、公金の相当部分を私的に流用したのだと描いている。また、その威儀や取り巻きの群れは謙虚な初代教会の司教よりも世俗の官吏にふさわしく、説教壇では詭弁家のような身振りで話し、大喝采を浴びたとも記す。美食にふけり、司教館に若く美しい二人の女性を置いていたともされる。

269年、アンティオキアに七十人の司教・司祭・助祭が集まって教会会議を開き、パウロスを罷免して後任にドムヌス1世を選んだ。ローマとアレクサンドリアの司教に宛てた回状も作られ、これは彼に関する当時の唯一確実な文書で、エウセビオスの『教会史』に保存されている。しかし会議が聖職者や民衆に諮らずに行われたため権威が疑われ、パウロスは、シリアを支配していたパルミラの女王ゼノビアと親しかったこともあって、さらに4年ほど司教館に居座った。

272年末、皇帝アウレリアヌスがゼノビアを破るとパウロスは庇護を失った。アウレリアヌスは自身はキリスト教徒ではなく教義にも関心がなかったが、秩序の回復だけを望み、双方の主張を自らの法廷で聞いたうえ、イタリアとローマの司教たちの判断に従った。全員一致の裁定はパウロスが司教の地位を明け渡すというものだった。この裁定は、約40年続いた「教会の小さな平和」の時期に下され、教会が内部の争いに皇帝の介入を求めた最初の例となった。

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