伝記
マルクス・クラウディウス・タキトゥスは、ローマ皇帝である。生年は200年ごろ、没年は276年6月とされ、在位は275年9月25日から276年である。のちに皇帝となるフロリアヌスは、異母(父)兄弟にあたる。
生涯の前半に関する情報は乏しく、ほとんど知られていない。即位したときの年齢を、ゾナラスや『ローマ皇帝群像』は75歳、または76歳と伝えるので、200年ごろの生まれと推測される。ただし、年長の元老院議員に敬意を払う古代の歴史家が、高齢を強調しただけの可能性もあり、実際にはもっと若かったかもしれない。出身地は、ローマから60キロメートルほどのウンブリアの町インテラムナ・ナハルス、現在のテルニとするものが多いが、多くの皇帝と同様、ドナウ川流域の属州の出身だったとする見方もある。『ローマ皇帝群像』は歴史家タキトゥスとの親族関係を述べるが、現代の歴史家は根拠のない偽りとみている。莫大な財産を持ち、インテラムナ・ナハルスのほかヌミディアやマウレタニアにも土地があり、ウォピスクスはその価値を2億8000万セステルティウスと見積もったが、当時のインフレのため正確な額は分からない。複数の子がいたが、名前は分かっていない。『ローマ皇帝群像』は、彼が9月に生まれ、治世中にその月の名をタキトゥスの名に改めさせたと述べる。
経歴は、長く元老院議員を務めたと言われる。イリュリア出身の軍人で、長年の軍功の恩典として元老院入りした人物だとも、軍務経験のある平民系の元老院議員だったともいわれる。少なくとも生涯に二度執政官に就いており、執政官経験者の格を持つ元老院議員だったことは間違いない。ただし、ワトソンのように、執政官に就いたのは同名の別人であり、この高齢の人物ではないとみる研究者もいる。皇帝に選ばれたときには、元老院の筆頭議員の地位にあった。
275年、アウレリアヌス帝が暗殺されたが、後継者が定まらなかった。アウレリアヌス麾下の軍隊の要請を受け、元老院が彼を選んで帝位に就けた。ラテン語の史料には空位が半年から七か月に及んだとするものもあるが、近年の年代研究では、アウレリアヌスは275年10月か11月まで帝位にあり、タキトゥスは翌年正月に二度目の執政官に就いているため、空位は二か月ほどだったと考えられている。新たな王朝を築く望みを抱き、兄弟のフロリアヌスを近衛隊長に任じたという。
まもなく国境で戦いが再燃した。ゲルマン系の諸部族がライン川を越えて荒らし回り、ゴート族はアウレリアヌスに呼ばれたと称して、黒海からコーカサスを経て小アジアに入った。兄弟は分担し、フロリアヌスがゲルマン人の侵入に、タキトゥスがゴート族に対処し、ともに成功したとされる。小アジアでゴート族に勝利し、ゴティクス・マクシムスの称号を帯びたが、ペルシア戦役に向かう途中、カッパドキアの都市ティアナで急死した。死因は、熱病とする説と暗殺されたとする説があり、エウトロピウスとアウレリウス・ウィクトルは熱を伴う病とし、ゾシモスはシリア総督マクシミヌスを殺した者たちによる暗殺と伝える。マクシミヌスはおそらく彼の親族であったという。確かなことは分からない。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- アンニア・ガレリア・ファウスティナ・ミノル (175年没)