伝記
プブリウス・ヘレンニウス・デクシッポスは、ギリシアの歴史家・政治家・軍人である。生年は210年ごろ、没年は273年とも278年ごろともいわれる。アテナイに生まれ、エレウシスの秘儀に関わる名門ケリュケス家の世襲の神官を務め、アテナイでアルコン・バシレウスと名祖アルコンの職にも就いた。
家系は史料に比較的よくたどれる。父はプブリウス・ヘレンニウス・プトレマイオスで、190年に青年(エペボス)であった。祖父はプブリウス・ヘレンニウス・ストラトンで、190年から210年ごろにエレウシスの秘儀に参加する聖なる伝令を務め、曽祖父のアポロニオスは168年から169年にプリュタニスを務めた名の知られた弁論家だった。さらにその父エウデモスは、157年から160年ごろにアテナイの評議会と民衆の伝令官だった。
267年、ヘルリ族がギリシアに侵入してアテナイを占領すると、デクシッポスは大きな個人的勇気を示し、同胞の愛国心を奮い立たせた。ヘルリ族を撃退し追い払ったとも伝えられる。彼をたたえる像が建てられ、その台座は功績を記した碑文とともに現存するが、碑文は彼の軍事上の功績には触れていないという。
著作は、ビザンティンの学者フォティオスの記述によって構成が知られる。『アレクサンドロス以後の事績』は、アリアノスの著作の要約と思われる後継者たちの歴史で、アテナイを中心とした視点で語られていたらしい。『スキュティカ』は3世紀のローマとゴート人(古風な言い方でスキュティア人)との戦争を扱い、ローマの職業軍人とギリシア人義勇兵が補い合う必要を強調していた。そして最もよく知られた『年代記(歴史)』は12巻以上からなり、おそらく千年にわたる歴史を皇帝クラウディウス・ゴティクス(270年)の治世まで述べた世界史である。フォティオスはその文体を高く評価し、「第二のトゥキュディデス」と呼んだ。
これらの大半は失われ、断片がビザンティン時代の抜粋集などに残るのみである。サルディスのエウナピオスは、この年代記の続きを書いた。また『ヒストリア・アウグスタ』の238年から270年の部分の主な典拠でもあるが、同書の作者が内容を誤ってデクシッポスのものとすることがあり、慎重な扱いが要る。なお、アリストテレスの『範疇論』に注釈を書いた同名の人物とは別人である。
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