伝記
ウジェーヌ・イヨネスコは、1909年11月26日にルーマニア・オルト県のスラティナで生まれ、フランスで主に活躍した劇作家である。本名はエウジェン・イオネスクといい、ルーマニア人の父エウジェンと、フランス人の母テレーズ・イプカールの間に生まれた。生年は長らく1912年とされてきたが、1950年代初頭にジャック・ルマルシャンが新しい世代の劇作家の登場を歓迎したことを受け、自身の年齢を3歳若く申告したことによる。1911年、父がパリ大学で法学の博士論文を書くことになり、一家はパリに移って、13歳までほとんどの期間をパリで過ごした。1917年から1919年までは、妹のマリリナとともにマイエンヌ県の田舎町ラ・シャペル=アントゥネーズに滞在し、この町は後に作品の中で、失われた楽園としてしばしば回想されることになる。
その後、父は妻子をパリに残してルーマニアへ帰国し、一方的に離婚して再婚した。次男ミルチャが早世したあと、二人の子を一人では育てきれなくなった母は、子供たちとともにルーマニアへ戻り、父を探し出して養育を委ねた。母を慕っていたイヨネスコにとって、この別離は大きな苦痛だった。父や継母とは事あるごとに対立し、17歳で家を出て暮らし始める。こうした家族内の対立の痕跡は、『義務の犠牲者』や『死者のもとへの旅』に見てとれる。1929年にブカレスト大学に入学し、エミール・シオランやミルチャ・エリアーデと出会って、三人は終生の友となった。このころから詩や評論を書き始め、評論集『否』は賛否両論の反響を呼んだ。1936年にロディカ・ブリレアヌと結婚し、同じ時期にフランス語教師の資格も取っている。
1938年、奨学金を受けて博士論文『ボードレール以降のフランス詩における罪と死』を書くため、再びフランスに渡る。しかし1939年に第二次世界大戦が勃発し、一時ブカレストへの帰国を余儀なくされた。1942年に再びフランスに戻り、在ヴィシー・ルーマニア公館の文化部職員、のち文化担当官となった。1944年に一人娘のマリー=フランスが生まれ、戦後は出版社で校正の仕事をしたが、やがて著述で才能を発揮し始めた。
1950年に『禿の女歌手』、1951年に『授業』、1952年に『椅子』を発表した。古典劇の規則を無視した不条理な作風は、発表当時は受け入れられなかったが、1950年代後半から脚光を浴び、現代演劇史に大きな足跡を残した。パリのセーヌ左岸の小劇場ユシェット座では、1957年以来『禿の女歌手』と『授業』を継続して上演している。初期の作品は日常的な光景から出発して、そこに潜む空虚や不安を誇張して見せ。1950年代後半から60年代前半の『無給の殺し屋』『犀』『瀕死の王』『空中歩行者』には、ベランジェという中心人物が現れる。『犀』は、1930年代にルーマニアで目にしたファシスト運動の高まりが背景にあると言われる。
政治への関心も強く、ソ連をはじめとする共産主義体制や、サルトルに代表される左派知識人を厳しく批判し続けた。1966年に『渇きと飢え』がコメディ・フランセーズで上演され、1970年にアカデミー・フランセーズ会員に選ばれた。後期の作品では自らの過去と夢に題材を求め、父との葛藤や母への思慕、友人アダモフとの喧嘩別れなどを描いた。このころ神経症の傾向が強まり、そのセラピーの一つとして絵を描き始め、晩年は執筆を徐々にやめて絵画に熱中し、ドイツ、スイス、フランスなどで展覧会も開いた。1994年3月28日に没し、パリのモンパルナス墓地に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- アゴスティーノ・ディ・バルトロメイ (1994年没)
- ジェリー・ルービン (1994年没)
- Caroline Smith (1994年没)
- ヴィトルト・ルトスワフスキ (1994年没)
- ジャック・メトカーフ (1994年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョヴァンニ・ボルディーニ (1931年没)
- ミシェル・ランベール (1696年没)
- ジョゼフ・ビヤンネメ・カヴェントゥ (1877年没)
- ジャンヌ・アヴリル (1943年没)
- シャルル・ド・モンテスキュー (1755年没)