伝記
ギャーニー・ジャイル・シンは、インドの政治家である。1982年から1987年までインドの大統領を務め、1970年代にはパンジャーブ州の州首相を務めた。シク教徒として初めて大統領になった人物である。1916年5月5日、ファリードコート藩王国のサンドファンで、キシャン・シンとインド・カウルの五人の子の末子として生まれ、生まれたときの名はジャルナイル・シンといった。大工に関わるカーストとされるラームガリーア系のシク教徒だった。
正規の学歴は大学入学資格試験までだったが、聖典の読み手であるグランティになる修行を積み、アムリトサルのシク教の宣教学校で学んで、学識者を意味する「ギャーニー」の称号を得た。英語は流暢ではなかったが、ウルドゥー語とパンジャーブ語による素朴な演説で知られた。パルダーン・カウルと結婚し、三人の娘と一人の息子をもうけた。1936年には農民運動への参加で1年間投獄された。1938年にファリードコートで、インド国民会議と連携する全インド藩王国人民会議の傘下に、政治組織プラジャー・マンダルを設立した。選挙による政府の設立を藩王に求めたが、拒まれ、1938年から1943年にかけて独房に監禁された。獄中の経験を機に、名をジャルナイル・シンからジャイル・シンへ改めたとされる。釈放後はファリードコートを追われたが、藩王国の外から運動を続け、1946年には非暴力の抵抗運動を始めた。国旗をめぐる運動や並行政府の樹立は、ジャワハルラール・ネルーとヴァッラブバーイー・パテールの介入で中止された。
独立後は、ファリードコートが統合されたパティアーラ・東パンジャーブ州連合で、1949年から1951年に歳入・農業大臣を務め、農地改革の導入を監督した。1956年から1962年は連邦議会の上院議員、1962年から1967年は州議会議員で、一時は州の大臣も務めた。1966年にパンジャーブ州の国民会議派委員会の議長となり、1972年に州首相に選ばれた。州首相としては、モハーリーにインド初の半導体の製造工場を設けたこと、1972年のパンジャーブ土地改革法を制定したこと、ウダム・シンの遺骨を迎えて州葬で荼毘に付したことなどが功績とされる。1977年の選挙で国民会議派が敗れた後は、過激なシク教の説教師ビンドランワーレを政治的、資金的に支援したと資料は述べ、のちにパンジャーブでは分離独立を求めるカーリスターン運動が起きた。
1980年に下院議員に当選し、インディラ・ガンディー首相のもとで内務大臣に任命された。州の新しい首相との対立と、ビンドランワーレへの支援が重なって、武装勢力への断固たる対処が妨げられ、情勢は悪化したとされる。1982年にニーラム・サンジーヴァ・レッディーの後任として大統領に選ばれた。任期の初めには、ブルー・スター作戦、インディラ・ガンディーの暗殺、1984年の反シク教徒暴動が起きた。ラジーヴ・ガンディーが首相になると関係は冷え込み、政策の情報を伝えられず、外遊も制限された。シンは政府の方針を問い、提出された案を細かく吟味して応じ、1986年にはインド郵便法改正案を握りつぶした。ボフォース社からの榴弾砲の調達をめぐる汚職疑惑や、求めた文書を政府が出さなかったことから、ラジーヴ・ガンディー政権を解任するのではないかという憶測も出た。1987年に任期を終え、後任はR・ヴェンカタラマンだった。1994年11月に交通事故で重傷を負い、12月25日にチャンディーガルの病院で亡くなった。墓所はデリーのエクタ・スタルにあり、回想録は1997年に刊行された。
同じ年に亡くなった人物
- デビッド・アルブリットン (1994年没)
- エーリッヒ・ホーネッカー (1994年没)
- アンドレス・エスコバル (1994年没)
- アントニオ・カルロス・ジョビン (1994年没)
- ハリー・サルツマン (1994年没)
同じ地域に関係する人物
- Nek Chand Saini (2015年没)
- ミルカ・シン (2021年没)