HISTORICAL PERSON · 1994年没

ロジャー・スペリー

アメリカの神経心理学者。カリフォルニア工科大学の教授を務め、ヒューベル、ウィーセルと共に1981年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。

生涯
1994年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / パサデナ)
出生地
アメリカ合衆国(ハートフォード)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ロジャー・ウォルコット・スペリーは、1913年8月20日にアメリカ合衆国コネチカット州ハートフォードで生まれた神経心理学者である。父フランシス・ブッシュネルは銀行に勤め、母フローレンス・クレーマーは商業学校で学んだ人だった。学業が重んじられる家庭で育った。11歳のときに父が死去し、その後は母が地元の高校で校長の補佐役を務めた。

ウェストハートフォードのホール高校ではスポーツで活躍し、学業も優れて奨学金を得てオベリン大学に進んだ。大学ではバスケットボール部の主将を務め、他の競技の代表にもなった。専攻は英語だったが、ウィリアム・ジェームズと仕事をしたことのあるステットソン教授の心理学入門の講義が、脳とその変わりうる性質への関心を呼び起こした。体が不自由で移動に苦労していた教授を車で送り迎えし、昼食の席で研究談義に耳を傾けるうちに、心理学への興味はさらに深まったという。1935年に英語の学士号、1937年に心理学の修士号を得て、1941年にシカゴ大学でポール・ワイスの指導を受け、動物学の博士号を取得した。その後はハーバード大学のカール・ラシュレーのもとで研究したが、時間の大半はフロリダ州オレンジパークの霊長類研究所でラシュレーとともに過ごした。

1942年からは霊長類の研究所で運動神経と感覚神経をつなぎ替える実験に取り組み、1946年にシカゴ大学の助教授となった。1949年に定期の胸部検査で結核の疑いが見つかり、ニューヨーク州の山地にあるサラナク湖で療養した。この間に心と脳についての考えを書き始め、1952年に発表した。同年、国立衛生研究所の神経疾患・盲目部門の部長となり、年末にはシカゴ大学へ戻って心理学の准教授となった。終身在職権を得られず、メリーランド州ベセスダへ移る予定だったものの、建設の遅れで足止めされた。その間、友人ヴィクター・ヘップバーンの誘いで講演したシンポジウムに、カリフォルニア工科大学の教授たちが来ていた。講演に感銘を受けた教授たちは、職を提示した。1954年に同大学の教授に就任し、医師ジョセフ・ボーゲンや多くの学生とともに、最も有名な実験を行った。

ワイスのもとで神経の特異性と脳の回路に関心を持ったスペリーは、ラットの脚の運動神経を交差してつなぎ、左の神経が右脚を動かすようにした。電気格子を敷いた檻で足に電気を与えると、ラットは左の足に刺激を受けるたび右の足を上げ、何度繰り返しても正しい足を上げることを学ばなかった。そこからスペリーは、神経系には生まれつき配線が決まっていて学び直せない部分があると結論した。それまでは大脳の大部分は未分化で代替が利くと考えられていた(ラシュレーの等能説など)が、スペリーは発達期を過ぎると脳の神経回路がほぼ固定されることを示した。ノーベル賞の受賞理由となった分離脳の研究では、てんかんの治療で脳梁を切断した患者に、片方の半球に依存する作業を行ってもらい、二つの半球がそれぞれ独立した意識を持つことを実証した。その成果は左右の大脳半球の機能分化の理解に大きく寄与したが、世間には歪曲や拡大解釈を伴って広まった。

1973年にパサノ賞、1976年にカール・スペンサー・ラシュレー賞、1979年にウルフ賞医学部門などを受け、1981年にデイヴィッド・ヒューベル、トルステン・ウィーセルとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。1989年にはアメリカ国家科学賞の行動・社会科学部門を受けている。2002年に発表された調査では、20世紀に最も引用された心理学者の第44位に挙げられた。1994年4月17日に死去した。

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