HISTORICAL PERSON · 1994年没

リチャード・ニクソン

アメリカの第37代大統領。アイゼンハワー政権の副大統領を務め、1960年の大統領選でケネディに敗れたが、1968年の選挙で当選した。

生涯
1994年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / マンハッタン区)
出生地
アメリカ合衆国(ヨーバ・リンダ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

リチャード・ミルハウス・ニクソンは、1913年1月9日にカリフォルニア州南部のヨーバリンダで生まれ、1994年4月22日に没したアメリカ合衆国の政治家である。父フランシスと、熱心なクエーカー教徒だった母ハンナの間の5人兄弟の次男で、母は厳格な躾を子どもたちに行った。一家は父の職や住所の変化とともに移り住み、1922年にウィッティアへ引っ越して雑貨屋兼八百屋兼ガソリンスタンドを始めた。本人は「貧しかったが幸せだった」と回顧したが、店は軌道に乗り、母の実家も裕福だったため、ピアノやヴァイオリンを習う余裕もあり、平均的な家庭と比べて貧しくはなかったとされる。

やがて長男と四男が小児結核を患い、医療費が家計に重くのしかかった。10歳のころから店の手伝いに励み、のちには野菜主任や経理主任も務め、登校前にもアルバイトをした。二人の兄弟は早世し、このとき「神の存在を疑った」という。学校ではアメリカンフットボールに打ち込み、万年補欠ながらガッツは人一倍で、弁論大会でも好成績を収めた。ハーバード大学から奨学生の誘いを受けたが、家の事情で地元を離れられず、母方の祖父の援助でウィッティア大学に進み、1934年に2番目の成績で卒業した。さらに奨学金を得てデューク大学のロースクールへ進み、3番目の成績で1937年に卒業、同年にカリフォルニア州の司法試験に合格した。東部の大手法律事務所への就職は人脈に恵まれず断念し、郷里で弁護士となって1939年に自分の事務所を開き、1940年には教師のパットと結婚した。

太平洋戦争が始まるとワシントンの連邦物価統制局に勤め、1942年6月に海軍へ入隊した。弁護士資格などが考慮されて補給士官となり、1943年から南太平洋のニューヘブリデス諸島、ニューカレドニア、ソロモン諸島などで兵站業務に就いた。昼夜を問わない爆撃に悩まされ、多くの戦友を亡くしたという。前線ではハンバーガーの屋台を出して人気を集め、ポーカーの名手としても名を馳せたとされる。1944年7月に帰国し、終戦を迎えて少佐で除隊した後は、ペプシコ社の弁護士として働いた。

1946年に共和党から下院選挙に出て、現職を破って当選した。妻のパットは当初立候補に反対したが、集会であいさつ回りをして夫を支えたという。同じ年に初当選したケネディとは、ともに南太平洋で従軍した経歴から、議員活動で友好関係を築いた。下院非米活動委員会に属し、元共産党員とされた政府高官アルジャー・ヒスを偽証罪に追い込んだことで、「反共の闘士」として全米に知られた。1950年には上院議員に当選し、対立候補に「共産主義者」のレッテルを貼る戦いぶりから、民主党には「トリッキー・ディック」と呼ばれた。1952年、39歳でアイゼンハワーの副大統領候補に指名されると、後援者の基金をめぐって批判を受けた。ニクソンは候補を降りず、9月23日夜に全米にテレビ中継された演説で、家計の資産と借金の詳細を明かして質素な暮らしを訴えた。1953年に第36代副大統領となり、1960年の大統領選挙ではケネディに敗れたが、1968年の選挙で当選し第37代大統領に就任した。ベトナムからの米軍撤退、ソ連とのデタント、中華人民共和国訪問、ドルと金の交換停止のニクソンショックなどを進めたが、1972年に起きたウォーターゲート事件のため、1974年に辞任した。任期中に辞職した唯一の大統領である。

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