HISTORICAL PERSON · 1994年没

ジュベナール・ハビャリマナ

ルワンダの軍人で、フツ出身の第3代大統領。1973年のクーデタで政権を握った。1994年に搭乗機が撃墜されて死亡し、これが虐殺の発端となった。

生涯
1994年没
死亡地
ルワンダ共和国(キガリ)
出生地
ルワンダ共和国(ギセニ県)
出典
世界地図
ルワンダ共和国(キガリ)

伝記

ジュベナール・ハビャリマナは、1937年3月8日に生まれ、1994年4月6日に没したルワンダの軍人・政治家である。フツ出身で、大統領としての代数は第2代とも第3代ともいわれる。あだ名はキニヤルワンダ語で「無敵」を意味する「キナニ」だった。ギセニイで裕福なフツの家に生まれたとされる。初等教育ののち、当時のベルギー領コンゴのブカブにあるサン・ポール学院で数学と人文学の学位を得て、1958年にはレオポルドビルのロバニウム大学の医学部に入学した。しかし翌1959年にルワンダ革命が始まると大学を離れ、キガリの士官学校に入った。1961年に優秀な成績で卒業し、ルワンダ駐留部隊を率いるベルギー人将校の副官となり、1962年にアガト・カンジガと結婚した。

独立後の1963年に国民防衛軍の司令官となり、1964年1月に大尉へ昇進した。1965年には国防警察相に任じられた。1973年7月5日、軍の参謀長と国防相を務めていた立場で、グレゴワール・カイバンダ大統領をクーデタで倒して政権を握った。1975年には開発国民革命運動を唯一の合法政党として創設し、フツ解放運動党を抑圧して独裁体制を築いた。政府はしばらく軍がほぼ握っていたが、1978年に新憲法が国民投票で承認されると、唯一の候補として5年任期の大統領に選ばれ、1983年と1988年にも唯一の候補として再選された。得票率は98.99パーセントから99.98パーセントに達し、不正が疑われている。党は各地の行政と一体化し、住民に大統領をたたえる歌や踊りを求める集会を開かせたという。ウムガンダという制度では、週に半日の労働を基盤整備の事業に割り当てることが義務づけられた。体制は保守的で反共を掲げ、人権は大きく制限されたとされる。穏健派と評されることもあるが、この間にルワンダは全体主義的な一党国家になったともいわれる。国全体の貧しさはやや和らいだものの、国民の大多数は極度の貧困にとどまった。

当初はフツとツチの双方から支持を得たとされるが、のちに大学や公務員の採用でツチを不利にする割り当てが再び使われた。支持者は次第に、故郷の北西部出身のフツ強硬派を中心とする小さな集団に絞られていった。一方で、コーヒー豆の価格高騰の恩恵を受けて経済は発展したが、1980年代にコーヒー豆の価格が暴落すると経済は破綻し、格差を示すジニ係数も年を追うごとに高くなった。この経済の崩壊は、のちの紛争や虐殺の要因の一つになったとされる。

1990年、難民となったツチを中心とするルワンダ愛国戦線がウガンダから侵攻して内戦が始まり、北部を占拠した。ハビャリマナは、この組織がツチ系であるとして対立を深めた。3年にわたる戦いののち、1993年にアルーシャ協定で和平が結ばれたが、対立は続いた。1994年4月6日、フツ系のブルンジ大統領シプリアン・ンタリャミラとともにキガリへ向かっていた飛行機が、キガリ国際空港の上空でミサイル攻撃を受けて撃墜され、二人とも死亡した。何者かによる撃墜とされ、死の状況には不明な点が残った。この事件はフツとツチの民族対立に火をつけ、ルワンダ虐殺の発端となった。

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