伝記
カール・ポパーは、1902年7月28日にウィーンの中流家庭に生まれ、1994年9月17日に没したオーストリア出身のイギリスの哲学者である。元来ユダヤ系だった両親はキリスト教に改宗しており、本人もルター派の教育を受けた。弁護士の父は愛書家で、書斎には1万2千から1万4千冊の蔵書があったといわれ、ポパーはそのような父を「弁護士というよりは学者」と述べている。13歳でマルクス主義者になったが、1919年にウィーンで社会主義者や共産主義者のデモ隊と警察が衝突して若者が死亡する事件が起きると、17歳で反マルクス主義者となった。その後も30歳までは社会主義者だったものの、自由と社会主義が両立しうるのかという疑いを強めていったという。
1928年にウィーン大学で哲学の博士号を取得し、1930年からの6年間は中学校で教えた。主著の一つ『科学的発見の論理』では、心理主義、自然主義、帰納主義、論理実証主義を批判し、科学の必要条件として反証可能性を提起して理論に仕立てた。反証されえない理論は科学的ではないというのがその考えで、科学と疑似科学の境界の設定を科学哲学の中心課題と捉えた。科学の進歩は、肯定的な事例が積み重なるところでなく、否定的な事例が反証した理論を新しい理論が取って代わるところで起こる、という見方も示した。フロイトの精神分析、アドラーの個人心理学、マルクス主義の歴史理論などは疑似科学を伴う理論として批判し、ウィーン学団には加わらなかったが、その周辺から反証主義の立場で論理実証主義を批判した。
1937年、ナチスによるオーストリア併合の脅威が高まると、ユダヤ系のポパーはニュージーランドに移り、南島クライストチャーチのカンタベリー大学で哲学講師となった。1945年に出版された『開かれた社会とその敵』は、この時代にファシズムやマルクス主義の社会哲学を批判するために、第二次世界大戦の前から戦中にかけて構想され、執筆されたものである。この間に叔父、叔母、いとこなど親族だけで17人が、ホロコーストの犠牲者として強制収容所で命を落とした。
戦争が終わるとイギリスに移り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで科学的方法の助教授を経て教授となった。1958年から1年間は『アリストテリアン・ソサイエティ』誌の編集責任者を務め、1965年にはバートランド・ラッセルの強い推薦を受けて、エリザベス2世からナイトに叙任された。11年後には王立協会のフェローとなっている。1969年の時点で学界を退いたものの、学術的な影響は亡くなるまで絶えなかった。ユダヤ教やキリスト教の道徳教育を顧慮しつつも、自らは不可知論者と称していた。
社会哲学では、歴史は一定の法則に従って発展するという歴史法則主義を批判し、ヘーゲルやマルクスの思想にも異を唱えた。1958年にスイスで行った講演では「赤でもなく、死でもなく」と述べ、ソビエト連邦の政治体制を拒否する姿勢を示した。ポパーの影響を受けた哲学者にはラカトシュ・イムレやポール・ファイヤアーベントがおり、経済学者のフリードリヒ・ハイエクとは友人関係にあった。投資家ジョージ・ソロスは、留学生時代の夏休みに『開かれた社会とその敵』を読んで感銘を受けてポパーを師と仰ぎ、のちに自らの財団に開かれた社会にちなむ名を付けた。日本銀行総裁を務めた黒田東彦は、ポパーの著書の邦訳を手がけている。物理学者のデイヴィッド・ドイチュは、ポパーの知識論を発展させる形で説明的知識という概念を唱えた。
同じ年に亡くなった人物
- テレンス・ヤング (1994年没)
- ロイ・プランケット (1994年没)
- アーヴェト・テルテリャーン (1994年没)
- ルドルフ・フィルクスニー (1994年没)
- ニコライ・オガルコフ (1994年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘンリー・オースチン (2000年没)
- デスモンド・デッカー (2006年没)
- ギルバート・ウォーカー (1958年没)
- ジョージ・アボット (1633年没)
- デリック・クック (1976年没)