伝記
マルクス・アウレリウス・カルスは、軍人皇帝時代のローマ帝国の皇帝である。在位は282年9月ごろから283年7月ごろまでで、没年も283年の7月か8月とされる。生年は222年ごろと説明されるが、ビザンツの年代記作者マララスが死去時に七十歳だったと記すことから223年か224年とする説もあり、確定していない。
出身地については、ガリア・ナルボネンシス属州、なかでもその州都ナルボの生まれとする説が有力である。ただ、ダルマティアのナロナの出身とみる研究者もいる。息子の一人がヌメリアヌスの名を持つことから、皇帝になる前の名は、マルクス・ヌメリウス・カルスと復元されている。ローマで教育を受け、文武両方の官職を務める元老院議員となり、キリキアの前執政官も務めた。プロブス帝の時代には近衛隊長となったが、他の近衛隊長と違い、この時期に執政官にはなっていない。
282年、プロブスがペルシア遠征に乗り出すと、ラエティアとノリクムの駐屯軍が、遠征の準備を進めていた近衛隊長のカルスを皇帝に推戴し、プロブスへの反乱が起こった。プロブスは、味方であるはずの兵に殺された。この経緯は伝承によって食い違う。ギリシア系の伝承では、カルスは兵が自分を望まぬ形で推戴しようとしているとみてプロブスに助力を求め、プロブスの送った軍がすぐに寝返ったという。ラテン系の伝承の多くでは、カルスが反乱の首謀者だったとされる。『ヒストリア・アウグスタ』は関与を否定するが、最大の利益を得たのが彼である以上、信用しがたいとの見方が強い。彼はプロブス殺害に関わった者を厳しく処罰してからローマへ戻り、正式に皇帝となった。元老院の承認を求めなかったことは、伝統に反し、皇帝権が公然と権威主義的な性格を帯びつつあることを示すとされる。
皇帝となると名をマルクス・アウレリウス・カルスと改め、二人の息子、カリヌスとヌメリアヌスをカエサルに任じた。カリヌスは翌年、彼とともに執政官となり、アウグストゥスに昇格して西方の属州の統治を任された。ヌメリアヌスは、新たな近衛隊長アペルの娘と結婚した。父と息子ヌメリアヌスは東部戦線へ戻り、ドナウ川の流域で蛮族を破って、プロブスが計画していたペルシア遠征を再開した。軍はメソポタミアへ侵攻し、順調に進んでクテシフォンの隣町コケを占領した。彼はこの功により、ゲルマニクス・マクシムス、ペルシクス・マクシムスの称号を用いた。
しかし遠征はそれ以上進まなかった。ティグリス川沿いの駐留地にいたカルスは、落雷に遭って事故死した。この雷は近衛隊長アペルの陰謀を示唆するとも言われるが、真相は定かでない。跡を継いだヌメリアヌスは軍を撤退させたが、彼もおそらくアペルに暗殺された。子は妻マグニア・ウルビカとの間の二男一女で、娘アウレリア・パウリナの消息は不明である。孫にニグリニアヌスがいるが、カリヌスと妻の子とする説と、娘アウレリアの子でカリヌスとヌメリアヌスの甥とする説がある。283年ごろに生まれ、284年後半か285年前半の乳児期に夭折したとも、311年にマクセンティウスに敗れてアフリカ属州で死んだともされる。
同じ年に亡くなった人物
- エウティキアヌス (ローマ教皇) (283年没)
同じ地域に関係する人物
- ムスタンスィル2世 (1262年没)
- Muhammad Zaidan (2004年没)
- サッファーフ (754年没)
- マイケル・モンスーア (2006年没)
- イッズ・アッ=ダウラ (978年没)