伝記
カルロ・ボッロメーオは、16世紀イタリアの聖職者で、カトリックの対抗宗教改革を推進した一人である。1538年10月2日、北イタリアのアローナに、ロンバルディアで最も古く裕福な家柄の一つであるボッロメーオ家の次男として生まれた。父はアローナ伯ジルベルト、母はメディチ家のミラノ系の家の出で、のちの教皇ピウス4世の妹にあたる。12歳のころに剃髪を受け、叔父から裕福なベネディクト会大修道院の収入を譲られたが、その収入のうち聖職者としての準備に要する分を超える部分は貧しい人々のものだと、父にはっきり伝えたという。軽い言語障害があって鈍いと見られたが、細心さと勤勉さで進歩した。1552年からパヴィーア大学で法律を学び、1559年12月6日に博士号を得た。
その直後に、母方の伯父ジョヴァンニ・アンジェロ・デ・メディチが教皇ピウス4世に選ばれ、これが人生の転機となった。教皇は縁故を重んじる人物であり、カルロをローマに招いて数々の要職を与えた。1560年1月31日、22歳で枢機卿に任命され、教皇庁の要職に就き、空席のミラノ司教区の行政官にもなった。教皇が重用した背景には縁故があったが、本人も早熟の天才で、人格者であり、自分に厳しく教会に身を捧げる人物だったからである。同年にはボローニャとロマーニャの教皇使節にも任じられた。1561年には、伯父である教皇のもとで国務長官となり、検邪聖省の一員にもなったほか、パヴィーアに学寮を設立している。伯父の期待に応え、対外政策を補佐し、1562年から1563年のトリエント公会議第3会期の続行と閉会に尽力した。1562年に兄が急死すると衝撃を受け、派手な生活を厳しく改め、1563年に司祭に叙階された。
1564年にミラノ大司教となり、公会議で問題とされた司教の任地不在を正すため、自ら模範を示そうと、枢機卿の地位を捨ててまで赴任を決めた。ただし実際の赴任は1566年で、ピウス4世が1565年に没し、ピウス5世が選ばれたのちであった。最初の仕事は、自分の聖職禄を新しい聖堂と病院の建設に使うことであった。市民には喜ばれたが、高位聖職者たちは歓迎せず、修道会の綱紀粛正にも反対が多く、1569年10月26日には反対派の修道会に雇われた司祭が、礼拝堂で祈るカルロを火縄銃で狙撃した。犯人は捕らえられ、使嗾した者たちとともに処刑された。スペインの異端審問がミラノへ持ち込まれるのも阻み、市民から絶大な敬愛を受けた。
各地の教区を巡回して説教と教理問答を行い、イエズス会を活用して神学教育を広め、教区会議を頻繁に開いて改革の勅令を出し、神学校や教育・慈善の施設を次々に設立した。1574年には聖職者に、自分から模範を示してひげを切るよう命じたという。1576年にミラノをペストが襲うと、危険も出費も顧みず、患者の世話や死者の埋葬に尽力し、近隣の教区をすべて訪れて金や物資を配る一方、義務を果たさない者、とくに聖職者を罰した。1584年11月に46歳でミラノで没した。トリエント公会議以後のカトリック改革者の中でも傑出した存在とされ、1610年11月1日に列聖されて、ミラノではアンブロジウスと並ぶ聖人とたたえられた。従弟も同じ道を歩んで、1595年にミラノ大司教となり、その名を冠した女子修道会もいくつも設立された。
同じ年に亡くなった人物
- 李珥 (1584年没)
- エーリヒ2世 (ブラウンシュヴァイク=カレンベルク=ゲッティンゲン公) (1584年没)
- アントーニオ・フランチェスコ・グラッツィーニ (1584年)
- バルタザール・ジェラール (1584年)
- マルカントニオ2世・コロンナ (1584年没)
同じ地域に関係する人物
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- ルイス・スアレス・ミラモンテス (2023年没)
- カルロ・ボノーミ (2022年没)
- Savino Guglielmetti (2006年没)
- フランチェスコ・フィリピーニ (1895年没)