HISTORICAL PERSON · 1586年没

ステファン・バートリ (ポーランド王)

トランシルヴァニア公を経て、1576年からポーランド・リトアニア共和国の王を務めた。多くの歴史家に、最も優れた選挙王と評価されている。

生涯
1586年没
死亡地
ベラルーシ共和国(フロドナ州 / フロドナ)
出生地
ルーマニア(Simleu Silvaniei)
出典
世界地図
ベラルーシ共和国(フロドナ州)

伝記

ステファン・バートリ(ハンガリー語名バートリ・イシュトヴァーン)は、1533年9月27日、ハンガリーの大貴族バートリ家のソムリヨ系統に生まれた。父は同名のバートリ・イシュトヴァーンで、ハンガリー王となったサポヤイ・ヤーノシュの熱心な支持者であり、ライバルのハプスブルク家のフェルディナント1世の即位に反対して、1529年にトランシルヴァニアの総督職についたが、息子が生まれた翌年に亡くなった。成長した息子は領主層の勇敢な指導者、神聖ローマ皇帝の宮廷における巧みな外交官となった。サポヤイ・ヤーノシュの息子ヤーノシュ・ジグモンドのハンガリー王位要求を支持したため、皇帝マクシミリアン2世に憎まれ、2年間投獄されたこともある。

1570年にハプスブルク家とサポヤイ家が和解し、ヤーノシュ・ジグモンドが新たに創設されたトランシルヴァニア公国の統治者となったが、翌1571年に彼が死ぬと、トランシルヴァニアの三身分議会は取り決めを破ってバートリ・イシュトヴァーンを公に選んだ。後継者とされていたベーケーシ・ガーシュパールはハプスブルク宮廷の支持を得て公位を要求したが、バートリは内戦に勝利して彼を国外に追放した。

1572年、ポーランド・リトアニア共和国で国王ジグムント2世アウグストが後継者を残さず死去すると、王位が空位となった。選ばれたフランス王子アンリは1年足らずで逃亡し、1575年12月にセイムは皇帝マクシミリアン2世を国王に選出したが、3日後にシュラフタが反乱を起こして、ポーランド人の王を選ぶよう要求した。議論の末、先王の妹アンナを女王に選び、バートリ・イシュトヴァーンと結婚させることが決まった。彼を強く支持したのは、ハプスブルク家の君主が対抗宗教改革を持ち込むことを恐れたプロテスタントらで、宗教的自由が保障されたトランシルヴァニアの統治者を好ましく思っていた。1576年5月1日に結婚してアンナと同等の地位を得たのち、リトアニアとの交渉を経て正式にリトアニア大公と認められ、その見返りとして1579年にイエズス会経営のヴィリニュス・アカデミーを創設した。

立場は当初きわめて困難で、マクシミリアン2世は王位を主張して反バートリ派を煽動したが、その死によって危機は去った。1577年にはグダニスクが王位を否認して包囲戦となり、12月の野戦で国王軍が完勝したものの、都市を力ずくで落とせず、妥協に至った。ステファンは同市の特権を確認し、グダニスクは主権者として認めて20万金グルデンを支払った。またヤン・ザモイスキの支持を得て王権を強化し、半常備軍の歩兵部隊を設け、登録コサック制度や有翼驃騎兵も本格的に導入した。

リヴォニア戦争では大法官ザモイスキとともに遠征を直接指揮し、1581年8月にプスコフを包囲して、厳しい冬の間も包囲を続けた。1582年のヤム・ザポルスキの和約で、ロシアはポラツクを割譲し、占領したリヴォニアを共和国に返還した。ツァーリのフョードル1世を後継者に迎える構想もあったが、1586年12月12日にフロドナ古城で急死して立ち消えとなった。遺体は東ヨーロッパで初めて検視解剖を受けたものとなり、のちにヴァヴェル大聖堂へ移された。多くの歴史家が最も優れた選挙王と評価する。

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