伝記
ミロヴァン・ジラスは、1911年6月4日にモンテネグロ王国のモイコヴァツ近くのポドビシュチェ村で生まれたユーゴスラビア共産党の政治家であり、理論家、作家である。ベオグラード大学在学中の1932年に共産党へ入党し、1933年から1936年までは政治犯として収監された。1938年に党中央委員会委員、1940年には政治局員となった。1941年4月にナチス・ドイツやイタリアなどがユーゴスラビア王国軍を破って王国を解体すると、ジラスはパルチザンの結成でヨシップ・ブロズ・ティトーを手助けし、戦争中はゲリラの司令官を務めた。イタリア占領軍と戦うためモンテネグロに送られ、蜂起の中で重要な役割を果たしたが、11月初めにティトーは、蜂起中の誤りを理由にジラスをモンテネグロのパルチザン部隊司令官から退け、党の機関紙『ボルバ』の編集者に任じた。
1942年3月にモンテネグロへ戻ると、パルチザンとチェトニックの間で内戦が起こるなか、現地の党指導部を強制的に刷新した。1944年3月には軍と党の使命を帯びてソビエト連邦へ赴き、スターリンらと会談している。ドイツ国防軍からベオグラードを解放するパルチザンの一人として戦い、戦後に建国されたティトー政権では副大統領に選ばれた。1948年に再びスターリンと会談するためモスクワへ向かい、ユーゴスラビアをモスクワの強い統制下に置こうとするスターリンの企てに対して、主導的な批判者の一人となった。同年の後半にユーゴスラビアとソ連は袂を分かち、ユーゴスラビアはコミンフォルムを離脱した。その後、国営企業の労働者自主管理を試みる自主社会主義政策に転換し、ジラスはその推進に重要な役割を果たした。
ジラスはティトーの後継者と広く見なされ、1953年に大統領に選ばれる予定であったという。1953年12月から翌年1月まで連邦議会議長を務めた。同年10月から1954年1月にかけて、機関紙『ボルバ』に19本の論説を書き、そのうち18本が掲載された。そこでジラスは、多くの軍高官や官僚がベオグラードの一等地に高価な家を持ち、新しい支配階級が形成されていると述べた。ティトーらはジラスを脅威と見なし、1954年1月に党中央委員会から追放し、ジラスは3月に共産主義者同盟を脱退した。同年12月には『ニューヨーク・タイムズ』のインタビューで、ユーゴスラビアの状況が「全体主義」を特徴とすると語り、二大政党制を訴えた。この「敵対的プロパガンダ」により裁判にかけられ、条件付きで懲役1年5か月の判決を受けた。
1956年、ハンガリー革命を支援する論説を書いたため、11月19日に逮捕され、3年以上の懲役に処せられた。1957年に国外で刊行された『新しい階級』では、ソ連や東欧の共産主義が平等主義ではなく、特権的な官僚層による新階級を確立していると訴えた。この本は50以上の言語に翻訳され、東西両陣営に衝撃を与えたが、同年に新たに7年の懲役を言い渡された。服役中には、モンテネグロの詩人の膨大な伝記を完成させ、小説や短編小説も著した。1962年、国外で刊行した『スターリンとの対話』によってふたたび投獄され、新たに懲役5年を宣告された。拘禁中にはトイレットペーパーで小説を書き、ジョン・ミルトンの『失楽園』をセルボ・クロアチア語に翻訳した。1966年12月31日に無条件で恩赦となり、以後は論争の人としてベオグラードに暮らし、西側諸国には英雄と讃えられる反体制派であり続けた。1981年にはユーゴスラビアがティトーの死で崩壊すると予測した。1995年4月20日に死去した。
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