伝記
メアリー・ステュアートは、1542年12月8日、スコットランド国王ジェームズ5世と、フランスのギーズ公家出身の王妃メアリー・オブ・ギーズの間に生まれた。12月14日にジェームズ5世が30歳で急死し、長男と次男が早世していたため、生後わずか6日で王位を継いだ。摂政には第2代アラン伯が就いた。イングランド王ヘンリー8世の要求で、のちのエドワード6世と婚約させられたが、1547年にイングランドの政権を握ったサマセット公の攻撃を受けてアラン伯が敗れる事態となり、1548年に王母の提案でフランスのアンリ2世のもとへ逃れ、以後はフランス宮廷で育てられた。
1558年4月24日、アンリ2世の王太子フランソワと結婚式を挙げた。同年11月にエリザベス1世がイングランド女王に即位すると、アンリ2世は庶子であるエリザベスの継承権には疑義があり、メアリーこそ正当な継承権者だと抗議した。翌1559年にはイングランド王位継承権を示す紋章を発表してエリザベスを激怒させ、アンリ2世の死でフランソワが即位すると、メアリーはフランス王妃となった。スコットランドでプロテスタントの反乱が起こり、イングランドの介入を経てエディンバラ条約が結ばれたが、メアリーはその後も紋章を使い続けた。多くのカトリックは、メアリーこそが実際のイングランド女王だと考えていたという。
1560年12月5日、子のないままフランソワ2世が16歳で病死し、メアリーは翌1561年8月にスコットランドへ帰国した。異母兄のマリ伯ジェームズ・ステュアートらを政治顧問とし、宗教の選択には寛容で臨むと宣言して両派の融和を図った。再婚相手には有力なカトリック国の王子ドン・カルロスらが挙がったが、カトリーヌ・ド・メディシスやエリザベス1世の妨害などで実現しなかった。1565年、従弟のダーンリー卿ヘンリーと出会い、同年7月29日に再婚した。彼はテューダー家の血を引くカトリック教徒で、エリザベス1世やマリ伯は強く反対したが、やがて傲慢な性格がわかるにつれ、メアリーの愛情は冷めていった。1566年3月9日には、目の前で秘書リッチオが貴族たちに殺害される事件が起き、同年6月19日、息子ジェームズ(のちのジェームズ1世/6世)を無事出産した。
1567年2月10日、ダーンリー卿が殺害されているのが発見された。ボスウェル伯が首謀者、メアリーが共謀者だと見られたが、実際の証拠はなかったとされる。その後ボスウェル伯がメアリーに結婚を申し込み、5月15日に2人は結婚式を挙げ、カトリック・プロテスタント双方がこの結婚に反対した。反ボスウェル派の貴族が軍を起こし、6月15日にメアリーは投降して、7月24日に廃位された。1568年5月にロッホ・リーヴン城を脱走して兵を集めたが、マリ伯の軍に敗れ、イングランドへ逃れた。
イングランドでは軟禁されたが、比較的自由な生活を許された。しかし継承権を主張し続け、エリザベス廃位の陰謀にも関わった。1586年、ウォルシンガムはメアリーをチャートリー城へ移し、逆スパイを使ってバビントンの陰謀を摘発した。この裁判で関与の証拠が示され、有罪と死刑を言い渡された。エリザベス1世は執行書への署名を渋ったが、1587年2月8日にメアリーは処刑された。遺体は当初ピーターバラ大聖堂に埋葬され、のちに息子のジェームズ1世によりウェストミンスター寺院へ移された。
同じ年に亡くなった人物
- 大村純忠 (1587年没)
- カスパル・オレヴィアーヌス (1587年没)
- Juraj Draskovic (1587年)
- フレゼリク2世 (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公) (1587年没)
- ジョン・フォクス (1587年)
同じ地域に関係する人物
- ボブ・アンダーソン (レーサー) (1967年没)
- トマス・オズボーン (初代リーズ公) (1712年没)
- John Pulman (1998年没)
- ピーター・ケンプ (1965年没)
- フレデリック・スペンサー (第4代スペンサー伯爵) (1857年没)