伝記
スブラマニアン・チャンドラセカールは、1910年10月19日、イギリスの統治下にあった英領インドのラホール(現パキスタン領)で、タミル系のバラモンの家庭に生まれた。父は北西鉄道の副監査長として当地に赴任しており、母は知的な探究に熱心で、イプセンの戯曲をタミル語に訳したとされ、幼い頃のチャンドラセカールの知的好奇心を呼び起こした人物とされる。叔父には、ラマン効果の発見で1930年にノーベル物理学賞を受けたチャンドラセカール・ラマンがいる。二人の姉と三人の弟、四人の妹がいた。一家は1916年にラホールからアラハバードへ移り、1918年にマドラスに落ち着いた。12歳になるまで家庭で教育を受け、父が数学と物理を、母がタミル語を教えた。
1925年から1930年までマドラスのプレシデンシ大学で学び、1929年にアルノルト・ゾンマーフェルトの講義に刺激されて最初の論文を書いた。1930年6月に物理学の学士号を取り、同年7月にインド政府の奨学金を得て、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに留学することになった。奨学金は、最初の論文を送ったラルフ・ファウラーの尽力で得られたものである。イギリスへ向かう船の上で、電子が縮退した白色矮星の統計力学に相対論的な補正を加える計算を進め、白色矮星の質量には上限があることを見いだした。のちにチャンドラセカール限界と呼ばれる。ケンブリッジではファウラーのもとで研究し、1931年の夏にはマックス・ボルンに招かれてゲッティンゲンの研究所で過ごした。1933年に学位を取得し、アーサー・エディントンにも師事した。
ところが、この質量を超えた天体がブラックホールになりうるという、後年に高く評価される結果を、エディントンは徹底的に批判し、二人の間に確執が生まれた。1937年にアメリカへ移住し、シカゴ大学とヤーキス天文台の研究員となって、亡くなるまで同大学に籍を置いた。白色矮星の内部構造、恒星内部でのエネルギーの伝達、恒星の進化と終焉についての業績があり、アメリカ天文学会の論文誌『アストロフィジカル・ジャーナル』の編集長も務めた。1942年にブラジルの研究者との共同論文で、主系列星のヘリウム中心核が重力収縮せずに静水圧平衡を保てる限界質量を推定した。この限界質量は二人にちなんでシェーンベルグ=チャンドラセカール限界と呼ばれる。さらに銀河系内の重力場の揺らぎが星の運動に及ぼす効果を調べて、「力学的摩擦」という概念を導入した。
1944年に王立協会のフェローに選ばれ、1948年のアダムズ賞、1952年のブルース・メダル、1953年の王立天文学会ゴールドメダル、1966年のアメリカ国家科学賞など多くの栄誉を受けた。1983年には「星の構造と進化にとって重要な物理的過程の理論的研究」によってノーベル物理学賞を受賞した。1995年8月21日、シカゴで心不全のため84歳で亡くなった。1999年に打ち上げられたアメリカ航空宇宙局のX線観測衛星「チャンドラ」は、彼にちなんで名づけられている。2015年には、アジア太平洋物理学会連合のプラズマ物理部門が、その名を冠した「チャンドラセカール賞」を設けた。
同じ年に亡くなった人物
- 福田赳夫 (1995年没)
- ヘスス・ガライ (1995年没)
- ダグ・マクルーア (1995年没)
- ニコラス・スロニムスキー (1995年没)
- ポール・A・ロスチャイルド (1995年没)
同じ地域に関係する人物
- ラルフ・メトカーフ (1978年没)
- チャールズ・オズグッド (心理学者) (1991年没)
- ジョーゼフ・ガーニー・キャノン (1926年没)
- ジェームズ・スミス・マクダネル (1980年没)
- Nathaniel Moore (1910年没)