伝記
コンラート・ツーゼは、1910年6月22日、ドイツのベルリンに生まれた土木技術者で発明家であり、コンピュータの先駆者である。1912年に家族とともに東プロイセンのブラウンスベルクへ移り、父はそこで郵便局員の職を得た。イエズス会系の学校に入り、1923年に一家がホイエルスヴェルダへ移ると、1928年にアビトゥーアに合格して大学入学資格を得た。王立シャルロッテンブルク工科大学(現在のベルリン工科大学)で工学と建築学を学んだが退屈に感じ、土木工学を専攻して1935年に卒業した。一時期はフォード・モーターで広告のデザインをし、その後ヘンシェルの航空機工場で設計技師として働いた。そこでいやになるほど手計算をした経験から、機械による計算を夢想するようになったという。
1936年、両親の家でZ1と呼ばれる機械を制作した。電気駆動の二進浮動小数点数の機械式計算機で、若干のプログラムが可能であり、命令は35ミリフィルムを使ったさん孔テープから読み取った。1937年にはのちのフォン・ノイマン型を先取りしたような特許を2件申請している。Z1は1938年に一応完成したが、3万点もの金属部品の精度が足りず、完全には動作しなかった。ツーゼは当時の計算機科学者や数学者から全く独立に開発を進めており、1936年から1945年までは戦争のためほぼ完全な知的隔離状態にあった。1937年に友人のシュライヤーがスイッチング部品に真空管を使うよう助言したが、当時の本人は「ばかげた考え」だと思っていた。
1939年に兵役につき、与えられた物資で、電話用リレーを使ってZ1を改良したZ2を完成させた。1941年には自身の機械を作る企業を創業し、Z2を基に改良したZ3を完成させた。Z3は二進法の22ビット長浮動小数点数の計算機で、ループを使ったプログラムを組めたが、条件分岐はできなかった。1998年にチューリング完全であることが証明されたが、これはテープを輪にするという理屈によるもので、実用的なチューリング完全ではなく、ツーゼ自身もそうは考えなかった。開発資金は政府系のドイツ航空機研究所が一部を出した。ナチ党の党員になったことはないが、ナチのために働くことに疑問や良心の呵責を感じなかったとされる。ほかに滑空爆弾の翼の空力計算をするS1とS2も製作し、S2は世界初のプロセス制御コンピュータとも言われる。
ツーゼの会社と初期の機械は、1945年の連合国の空襲でZ4を除き破壊された。Z4は安全な場所に移されて難を逃れたが、戦後は物資不足で製作が続かず、再開は1949年になった。同年、新しい会社を創業し、Z4は1950年7月にチューリッヒ工科大学へ納入されて、非常に信頼性が高いことを示した。戦争末期には疎開先で、世界初の高水準プログラミング言語プランカルキュールを設計したが、全体の公表は1972年で、実装は没後の2000年にベルリン自由大学のチームが初めて行った。1945年1月にギーゼラ・ブランデスと結婚し、5人の子をもうけた。会社は1967年までに251台のコンピュータを販売したが、財政問題でシーメンス社に身売りすることになった。
1967年、宇宙そのものがセル・オートマトン上で実行されているという考えを唱え、1969年に著書『計算する宇宙』を出版してデジタル物理学の概念を提案した。1987年から1989年には、心臓発作を経験しながらZ1を再生し、約3万個の部品と80万ドイツマルクを費やした。引退後は趣味の絵画に没頭し、1995年12月18日、ドイツのフルダ近郊で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- アナトリー・タラソフ (1995年没)
- ヴィク・バッキンガム (1995年没)
- マイケル・ホーダーン (1995年没)
- ヘスス・ガライ (1995年没)
- ラナ・ターナー (1995年没)
同じ地域に関係する人物
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- ゾフィー・エレオノーレ・フォン・ザクセン (1671年没)
- マックス・ハインレ (1924年没)
- アルベルト・マンゲルスドルフ (2005年没)
- モーリッツ・フォン・ヘッセン (2013年没)