HISTORICAL PERSON · 1995年没

ディーン・マーティン

アメリカの歌手・俳優。ジェリー・ルイスと組んだコメディ・コンビ「底抜けコンビ」や、シナトラらとのラット・パックのメンバーとして知られた。

生涯
1995年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ビバリーヒルズ)
出生地
アメリカ合衆国(ステューベンヴィル)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ディーン・マーティンは、1917年6月7日に生まれ、1995年12月25日に没したアメリカ合衆国の歌手・俳優・コメディアンである。1946年から1956年にかけてはジェリー・ルイスとのコメディ・コンビ「底抜けコンビ」で知られ、1958年以降はフランク・シナトラやサミー・デイヴィスJr.らと組んだエンターテイナー集団ラット・パックのメンバーとして知られた。

生まれたのはオハイオ州東部、ピッツバーグに近い小都市スチューベンビルで、出生時の名はディノ・ポール・クロセッティという。イタリア系移民の子で、幼い頃は英語を話せずイタリア語を話していたという。高校を中退すると、闇酒場で密造酒の運転手をしたり、製鉄所の警備員を務めたりした。少年時代から酒場に出入りしていたため、15歳からはウェルター級のボクサーとして懸賞試合に出て、リングネームは「キッド・クロセッティ」だった。試合で鼻を負傷して引退し、その後はバーの用心棒などをして暮らした。

芸能の道は1940年代初頭、クラブをまわっていたサミー・アトキンス率いるバンドと知り合い、専属歌手になったことに始まる。当初はビング・クロスビーやミルス・ブラザーズの歌い方をまねており、名前もディノ・マルティーニと改めた。のちにアトキンスからイタリア風の名を英語風にするよう勧められ、ディーン・マーティンと名乗った。映画会社のオーディションには落ち、地方巡業でナイトクラブの歌手になった。1946年、アトランティック・シティのクラブで解雇寸前の窮地に立った折、ニューヨークで出会った9歳下の無名のコメディアン、ジェリー・ルイスと即興でコンビを組んだ。これが人気に火をつけ、ハル・B・ウォリスの目に止まって、パラマウント映画の「底抜けシリーズ」(1949年から1956年)にコンビで出演した。ところが成功はルイスひとりの手柄だとする中傷があり、マーティンは歌手としてミリオンヒットを何枚か出しながら、俳優としての評価は低かった。コンビ解消の理由は正式に発表されていない。1956年に結んだ7本の追加契約のうち2本を消化しただけで、ルイスだけがパラマウントとの契約を続けたため、世間からはマーティンの自己都合による退社と揶揄された。それでも独立後も「凡ては夜に始まる」(1960年)など計5本分の契約を果たしたという。

1956年にコンビを解消してからは、同じイタリア系で2歳年長のシナトラの誘いでシナトラ一家に加わり、ラット・パックの主要メンバーとして活動した。映画では西部劇や、自身の歌をまじえたコメディなどの娯楽作に多数出演した。1966年からはスパイ映画「サイレンサー」シリーズの全4作に主演し、1970年公開の「大空港」では副操縦士を演じた。歌手としては1948年にキャピトルと契約し、1962年にシナトラの設立したリプリーズ・レコードへ移った。代表曲は1964年の「誰かが誰かを愛してる」である。NBCの「ディーン・マーティン・ショー」(1965年から1974年)の司会も務めた。

晩年は息子で俳優のディーン・ポール・マーティンが飛行機事故で亡くなったことや、体調の悪化もあって、仕事への意欲を失ったという。1988年にはシナトラの誘いでサミー・デイヴィスJr.との巡業に加わったが、リハーサルに遅れたり途中で帰ったりしたためシナトラが激怒し、シカゴで降板して決裂した。以後2人が同じ舞台に立たなかったという。1995年12月25日、ビバリーヒルズで肺癌に併発した肺気腫のため死去した。2009年の第51回グラミー賞では生涯業績賞を受けている。

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