伝記
ジンジャー・ロジャースは、アメリカ合衆国の女優、ダンサー、歌手である。フレッド・アステアとコンビを組んだミュージカル映画で知られる。1911年7月16日、ミズーリ州インディペンデンスで、新聞記者の母リーラ・エモジーン・オーウェンズと電気技師の父ウィリアム・エディンズ・マクマスの一人娘として生まれた。本名はヴァージニア・カスリーン・マクマスである。芸名のジンジャーは、幼い従弟がヴァージニアを発音できずにつけたあだ名に由来するとされる。母方はスコットランド、ウェールズ、イングランドの血筋とされ、一家はクリスチャン・サイエンスの信者で、本人も生涯その信者であった。
両親は生後まもなく別居し、父は二度にわたって娘を連れ去ったため、母は離婚した。ジンジャーは父に二度と会わなかったと語っている。1915年、母が自分の書いた作品の映画化を求めてハリウッドへ出かけた間は、近くのカンザスシティに住む祖父母に預けられた。母は成功し、その後もフォックス社の脚本を書き続けた。9歳のときに母が再婚し、相手のジョン・ローガン・ロジャースの姓を名乗るようになった。養子縁組はしていないとされる。一家が移ったテキサス州フォートワースで、母は地元紙の舞台批評家になった。楽屋の袖で母を待つあいだに、舞台の出演者に合わせて歌い踊るようになり、芸能への関心が深まった。高校には通ったが、卒業はしていない。
1925年、エディ・フォイの巡業するヴォードヴィルの一座が急な代役を必要としたことが、芸能界入りのきっかけになった。14歳でチャールストンのコンテストに出て優勝し、その賞で、オルフィウム興行網の巡業に半年間参加した。その後は4年ほど各地を回った。17歳で歌手兼ダンサーのジャック・カルペッパーと結婚して二人組で舞台に立ったが、結婚は1年と続かなかった。巡業でニューヨークを訪れた際にそのまま残り、ラジオや舞台に出た。ブロードウェイの舞台でデビューして評価され、パラマウント映画と契約したが、契約は5本で終わった。
最初の成功は、1933年の『四十二番街』と『ゴールドディガーズ』での助演であった。同じ年に『空中レヴュー時代』でフレッド・アステアと共演して人気を得た。1930年代にRKOで撮った一連のアステアとの共演作は、ミュージカルというジャンルを一新したとされる。『コンチネンタル』『トップ・ハット』『有頂天時代』などは同社の大きな成功であった。アステアとの共演は全部で10本を数えるとされる。商業的に振るわない作品が続くと、ドラマや喜劇に重心を移し、『ステージ・ドア』『恋愛手帖』などで評価を得た。1940年に『恋愛手帖』でアカデミー主演女優賞を受け、1940年代で最も出演料の高い女優の一人となった。
1949年にはアステアと『ブロードウェイのバークレー夫妻』で再び共演して成功した。1952年の喜劇『モンキー・ビジネス』に主演して成功し、1955年の『タイト・スポット』は批評家に賞賛されたが、50年代半ばには不振の時期に入る。1960年代は舞台が中心で、1965年にはブロードウェイで『ハロー・ドーリー!』の主役を演じ、1985年には舞台の演出も手がけた。1987年までテレビに出演し、1991年に自伝を刊行した。1992年にケネディ・センター名誉賞を贈られ、1995年4月25日に自然死した。83歳であった。生涯に73本の映画に出演した。
同じ年に亡くなった人物
- エリシャ・クック・Jr (俳優) (1995年没)
- スティーブン・スペンダー (1995年没)
- ケン・サロ=ウィワ (1995年没)
- ジャック・フィニイ (1995年没)
- ピート・ファンデカンプ (1995年没)
同じ地域に関係する人物
- エラ・フィッツジェラルド (1996年没)
- ブルーノ・カービー (2006年没)
- アーヴィング・ウォーレス (1990年没)
- レイ・ティール (1976年没)
- フィニアス・ゲージ (1860年没)