伝記
ンナムディ・ベンジャミン・アジキウェは、1904年11月16日に、当時イギリス領だったナイジェリア北部の現在のニジェール州にあるズンゲルで生まれた政治家である。名のンナムディはイボ語で「父は生きている」を意味する。父オベド・エドム・チュクウェメカ・アジキウェはオニチャ出身で、イギリス統治下の行政機関の事務員をしており、母レイチェル・チンウェは、オニチャの王家の流れをくむ家の出だった。幼いころはハウサ語を話して育ったが、父はイボ語が話せないことを心配して、1912年に彼をオニチャの祖母と叔母のもとへ送った。その後、ラゴスなどで学び、成長するうちにナイジェリアの三大言語を話せるようになったとされる。
ラゴスのメソジスト系の男子校で学んでいたとき、教育者ジェームズ・アグレイの講演を聞き、アフリカ人は海外で大学教育を受けて帰り、社会を変えるべきだと説かれて、アメリカの黒人を受け入れる学校の一覧を渡された。マーカス・ガーヴェイの思想にも触れ、のちの民族主義的な言論の重要な部分になったという。学校を出て植民地政府の財務部門の事務員となったが、そこで植民地政府内の人種的な偏見を知った。留学先にイギリスではなくアメリカを選んだのは、アグレイの影響や、ガーフィールドやリンカーンの伝記、貧しい学生への援助があったためである。アメリカではワシントンD.C.のハワード大学で学んだあと、1930年にペンシルベニア州のリンカーン大学へ移った。
1934年11月にガーナのアクラに渡り、日刊紙『アフリカン・モーニング・ポスト』の編集長となったが、筆禍で6か月入獄した。1937年にナイジェリアへ戻ると、ラゴスで『ウェスト・アフリカン・パイロット』紙を創刊し、民族運動を推し進めた。1944年にナイジェリア・カメルーン国民会議が結成されると入党してジャーナリズムから政界に転じ、1946年に議長となった。同年2月、彼に心酔する若者たちが、愛称ジクにちなむジキスト運動を始めた。当初は東部だけだったが、翌年には都市を中心に全国に広がった。1949年にはエヌグの炭鉱労働者のストライキを機に反政府デモを行ったが、1950年に当局に禁止された。1954年にはナイジェリア東部州の首相となり、独立の要求を続けた。
1960年11月16日にナイジェリアが独立すると第3代総督となり、1963年に共和制への移行が可決されると、ナイジェリア連邦共和国の初代大統領に就いた。だが、タファワ・バレワ首相が率いる北部州と、彼の東部州との対立が激しくなり、北部寄りの西部州も巻き込んだ政争で政府は混乱が続いた。1966年の軍部クーデターで辞任し、ビアフラ戦争の期間にあたる1967年から70年には、当初チュクエメカ・オジュク中佐に協力してビアフラ側に立ち、スポークスマンとして支持を訴えたが、のちに連邦支持に転じた。戦後は1972年から1976年までラゴス大学の総長を務め、1978年にナイジェリア人民党を結成して、1979年の民政復帰後の大統領選に出馬したが、シェフ・シャガリに敗れた。1983年に軍事政権に追われて政界を引退し、1996年5月11日にエヌグで没した。首都アブジャの国際空港には彼の名が付けられ、500ナイラ紙幣には肖像が印刷されている。
同じ年に亡くなった人物
- マルセル・カルネ (1996年没)
- ラインハルト・リブダ (1996年没)
- Raymond Salles (1996年没)
- ゲオルギウス・ゾイタキス (1996年没)
- エディ・ハリス (1996年没)
同じ地域に関係する人物
- シプリアン・エクウェンシ (2007年没)
- Amaka Igwe (2014年没)