伝記
クローデット・コルベールは、1903年9月13日にパリ近郊のサン=マンデで生まれた女優である。かつては1905年生まれともされたが、のちに1903年に訂正されている。本名はエミリー・クローデット・ショーショワンで、リリーという愛称で呼ばれた。フランス人の父ジョルジュは銀行に勤める人物で、母ジャンヌ・マリーはイギリス系とされる。一家は1906年にニューヨークへ移住した。マンハッタンの53丁目にある建物の、エレベーターのない5階で暮らし、彼女は毎日その階段を上ったことが脚をきれいにしたと語っている。祖母のマリーから英語を学んで、英語とフランス語の両方を話すバイリンガルとして育った。
ワシントン・アーヴィング高校では、教師のアリス・ロセッターに勧められて、教師が書いた芝居のオーディションを受けた。15歳のときにはプロビンスタウン・プレイハウスの「ザ・ウィドウズ・ヴェール」で初舞台を踏んだとされる。しかし本人の関心はむしろ絵や服飾デザインにあり、アート・ステューデンツ・リーグに通いながら、衣料品店の店員やベビーシッターをして学費を稼いでいた。作家アン・モリソンの知遇を得て、モリソンの戯曲に小さな役を得て、1923年にブロードウェイの舞台に立った。高校時代から使っていたクローデットの名に、祖母の旧姓コルベールを加えて芸名とした。プロデューサーのアルバート・ウッズと契約し、1925年から1929年にかけてブロードウェイで純真な役を演じた。フランス人のメイド役ばかりを当てられるのを嫌い、名前は綴りどおり「コルベール」と発音することにした。
1927年の『力漕一挺身』で映画に初めて出たが、作品はまったく成功しなかった。もともと映画より舞台に専念したかった彼女は、これが最初で最後の映画出演だろうと考えていた。だが大恐慌で多くの劇場が閉鎖され、映画に活路を見出さざるを得なくなった。トーキーの時代に入ると、パラマウント社で成功を重ね、『女は嘘つき』のヒットを機にコンスタントに映画へ出るようになる。1934年にはクラーク・ゲーブルと共演した『或る夜の出来事』で、結婚相手を勝手に決めて父に反対された甘やかされた令嬢をコミカルに演じ、アカデミー主演女優賞を受賞した。同じ年の『クレオパトラ』のほか、1935年の『プライベート・ワールド』と1944年の『君去りし後』では演技派としてアカデミー賞の候補にもなった。スクリューボール・コメディの名手として知られ、1942年の『パーム・ビーチ・ストーリー』などがある。1936年には年収30万ドルを稼ぎ、1938年と1942年には最も報酬の高い俳優となった。
1945年にパラマウントとの契約が切れた後も出演は続いたが、勢いは徐々に落ちた。1950年の戦争映画では早川雪洲と共演し、晩年の代表作の一つとなった。1950年代後半にはテレビ出演を経てブロードウェイに戻り、舞台『ザ・マリッジ・ゴー・ラウンド』でトニー賞の候補になった。1987年のテレビ作品『グレンヴィル家の秘密』ではゴールデングローブ賞を受け、エミー賞の候補にもなった。
二度結婚しているが、最初の夫とはハリウッドで同居せず、二番目の夫とは死別するまで同居した。結婚は偽装でレズビアンではないかという噂が流れたが、本人は否定した。クローズアップでは顔の左側からしか撮らせなかったことでも知られる。のちにマンハッタンのアパートとバルバドスの家で暮らし、1996年7月30日、92歳で脳卒中のため亡くなった。子はなく、遺産の大半は長年の女友達に与えられた。
同じ年に亡くなった人物
- イェレナ・マザニク (1996年没)
- ポール・エルデシュ (1996年没)
- Zinovy Gerdt (1996年没)
- R・ジャーナキ (1996年没)
- タデウシュ・ライヒスタイン (1996年没)
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