HISTORICAL PERSON · 1996年没

堺井秀雄

日本のサッカー選手。関西学院で天皇杯の2大会連続優勝に貢献し、プレーは地味ながらシュート力が正確だった。1934年の極東選手権で日本代表に選ばれた。

生涯
1996年没
死亡地
日本(兵庫県)
出生地
日本(日本)
出典
世界地図
日本(兵庫県)

伝記

堺井秀雄は、1909年に生まれた日本のサッカー選手で、のちに会社役員となった人物である。生まれた日は6月16日とも6月10日ともされ、出身地も兵庫県芦屋市とする資料と大阪府とする資料があって、一致しない。幼少期は兵庫県神戸市で過ごしたという。

関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学商学部)に入学してサッカー部に所属し、同校の選手と卒業生で構成された関学クラブの一員として活躍した。1929年10月と1930年2月に開かれた二度の全国優勝競技会、すなわち第9回と第10回の天皇杯全日本サッカー選手権大会では、後藤靱雄らとともに二大会連続の優勝を果たした。ポジションはフォワードとされる。そのプレースタイルは地味ながらも、シュートの正確さは際立っていたと伝えられる。

1932年3月に卒業すると、湯浅蓄電池製造(現在のジーエス・ユアサコーポレーション)に入社した。1934年5月にマニラで開かれた第10回極東選手権競技大会では日本代表に選ばれ、5月13日のオランダ領東インド代表戦で初出場した。続いてフィリピン代表、中華民国代表とも対戦し、この年に代表の3試合に出場したが、得点はなかった。

現役を退いてからは仕事に専念し、1949年11月に湯浅蓄電池製造の取締役となった。1953年8月に常務取締役(業務部長を兼務)、1954年5月には湯浅乾電池の常務取締役となった。この会社は同年9月に湯浅蓄電池製造と合併して湯浅電池となる。1957年3月には蓄電池事業部の部長を委嘱され、1966年11月には湯浅電池の専務取締役に就いた。

絵を愛し、時間のあるときは自宅のアトリエで油絵を描いた。全国天皇杯実行委員会の副委員長の依頼を受け、1972年から1991年まで、天皇杯全日本サッカー選手権大会のパンフレットの表紙絵を描き続け、その期間は19年間に及んだ。その作品は財界人の絵画展などにもたびたび出品されたという。1996年6月3日、兵庫県西宮市で肺炎のため死去した。86歳だったと記す資料がある。

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