伝記
2パック(トゥパック・アマル・シャクール)は、1971年6月16日にニューヨーク市マンハッタン区のハーレム地区で生まれたアメリカ合衆国のヒップホップMC・俳優である。名前の「トゥパック・アマル」は古代インカの言葉で「輝ける龍」を意味するとされ、インカ帝国最後の皇帝トゥパク・アマルと、その名を継ぐと称して反乱を起こしたトゥパク・アマル2世に由来する。両親のアフェニ・シャクールとビリー・ガーランドはともにブラックパンサー党の党員で、一族には1979年に脱獄してキューバに亡命したアサータ・シャクールもいた。出生時の名はレサーン・パリッシュ・クルックスだったとする資料もあるが、遺族は確認していない。幼少期をブロンクス区で過ごし、主に母に育てられて、1984年にはボルチモアへ、1988年にはサンフランシスコ湾岸地域へ移った。
西海岸でレイ・ラブとグループを組み、1991年にMCニューヨークの名でデジタル・アンダーグラウンドの一員となって、曲「セイム・ソング」に参加した。脱退後は「2パカリプス・ナウ」でソロ・デビューし、社会の不正や黒人が置かれた状況を取り上げる政治的な歌詞で、西海岸ヒップホップの重要な存在となった。1992年には映画「ジュース」に出演して、俳優としても注目を集めた。1993年に「キープ・ユア・ヘッド・アップ」をソウル・チャートでヒットさせ、翌1994年にはグループ、サグ・ライフとしてアルバムを出した。アルバムの曲が副大統領ダン・クエールから非難されたこともある。
また、5発も被弾する事件に巻き込まれた。現場にショーン・コムズとノトーリアス・B.I.G.がいたことから、2パックは東海岸のバッド・ボーイ・レコードの陰謀を疑い、西海岸と東海岸のラップ関係者の対立が激しくなった。1995年には、ファンの女性に性的行為を強要したとする疑いで懲役4年6か月の判決を受けた。服役中に西海岸のデス・ロウ・レコードと契約し、オーナーのシュグ・ナイトが用意した140万ドルの保釈金で出所したが、のちにレーベルがこの金の返済を求めたため、在籍し続けることになった。1995年にはドクター・ドレー、ロジャーと組んだ「カリフォルニア・ラヴ」を大ヒットさせ、アルバム「オール・アイズ・オン・ミー」を発表した。獄中でイタリアの思想家マキャヴェッリの著作に感銘を受け、マキャヴェッリを名乗って「リヴ・アンド・ダイ・イン・LA」をヒットさせている。
1996年9月、ラスベガスで友人のボクサー、マイク・タイソンの試合を観戦した後、乗っていた車に別の車が横付けして銃撃され、4発を受けて6日後の9月13日に亡くなった。25歳であった。長く犯人も動機も判明せず、のちに殺害されたノトーリアス・B.I.G.とともに、東西ヒップホップ抗争の犠牲者と言われた。2023年9月には、ラスベガス警察がサウスサイド・コンプトン・クリップスのメンバーを、殺害を指示した容疑で逮捕している。
死後も多くの未発表音源が発掘され、マキャヴェッリ名義のアルバムも出た。エミネムをはじめ多くの音楽家に影響を与え続けており、2012年の音楽祭ではホログラムで舞台に登場した。ドキュメンタリー映画「トゥパック:レザレクション」は、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門にノミネートされ、2017年には伝記映画「オール・アイズ・オン・ミー」が公開された。
同じ年に亡くなった人物
- マリオ・サビオ (1996年没)
- Kurt Svanstrom (1996年没)
- ヴィクター・アーロン (1996年没)
- ローラ・ベルトラン (1996年没)
- Zinovy Gerdt (1996年没)
同じ地域に関係する人物
- サミュエル・ゴーズミット (1978年没)
- パンチョ・ゴンザレス (1995年没)
- 金得九 (1982年没)
- ジョン・パウエル (2022年没)
- オスカー・ボナベナ (1976年没)