HISTORICAL PERSON · 1591年没

インノケンティウス9世 (ローマ教皇)

ローマ教皇(在位1591年)。ボローニャ大学出身の教会法の専門家で、司教や教皇使節を務めた。グレゴリウス14世の側近として外交で評価され、教皇に選ばれたが、2か月で病死した。

生涯
1591年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ボローニャ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

インノケンティウス9世は、16世紀末のローマ教皇である。本名はジョヴァンニ・アントニオ・ファッキネッティといい、1519年7月にボローニャで生まれた。日付は20日とも22日ともいわれる。父アントニオ・デッラ・ノーチェはクラヴェーニャの出身で、オッソラの貴族デッラ・ノーチェ家の流れをくむが、裕福ではなかった。ボローニャへ出て奉公する際に、荷運びを意味するファッキネッティというあだ名を与えられ、息子もこの名を名乗ったが、生涯オッソラとの結びつきを保ち、貴族の家の紋章を用いたという。ヴェローナの家系の出とする説もあるが、1906年に歴史家が教会記録のノヴァーラとノガーラを取り違えたことに由来するとみられる。母はフランチェスカ・チーニである。

法学で知られたボローニャ大学で学び、1544年に世俗法と教会法の両方で博士号を得て、同年3月11日に司祭に叙階された。1547年にはドモドッソラの聖堂の参事会員に任じられた。ローマに出て教会法の専門家として、まずニッコロ・アルディンゲリ枢機卿の秘書となり、ついでファルネーゼ家の実力者であるアレッサンドロ枢機卿に仕えた。この枢機卿はアヴィニョン司教でもあったため、ファッキネッティを代理としてアヴィニョンに派遣し、さらにパルマでの業務にもあたらせた。1559年には使徒座署名院の調査官にも就いている。

1560年にカラブリアのニカストロの司教となり、1562年にはトリエント公会議に出席した。この司教座に実際に居住した司教は、30年ぶりであったという。1566年、教皇ピウス5世は彼を教皇使節としてヴェネツィアへ派遣し、教皇とスペイン、ヴェネツィアの同盟を進めさせた。この同盟は1571年のレパントの海戦の勝利に結びついた。1572年にはエルサレムの名義大司教に任命された。1583年12月12日、教皇グレゴリウス13世により枢機卿に列せられ、1591年には教皇グレゴリウス14世のもとで使徒座署名院長官となった。グレゴリウス14世はマラリアで床に伏すことが多かったため、第一の側近としてほとんどの実務を引き受けたと伝えられる。

グレゴリウス14世の先が短いとわかると、スペイン派と反スペイン派の枢機卿団が選挙工作を始めた。前回のコンクラーヴェでは、スペイン王フェリペ2世が候補者を7名に限るほどの介入を行い、反感を買っていた。今回はそこまでの介入はなかったが、スペイン派が過半を握っていた。投票は3回を要し、10月28日には24票で及ばず、29日の2回目に28票、3回目で当選した。教皇名はインノケンティウス3世にちなむ。戴冠式は11月3日に行われた。就任直後から、フェリペ2世とフランスのカトリック同盟が、アンリ4世と争うなど多難であったが、教皇自身に外交構想があったとしても、2か月で世を去ったため実現しなかった。この間にしたことは、12月18日の唯一の枢機卿会議で2人を枢機卿に任命したことで、その一人は甥のジョヴァンニ・アントニオ・ファッキネッティである。

12月18日、病身をおして、ローマの七つの巡礼教会をめぐったところ、風邪をひき、重い咳と熱に変わり、終油の秘蹟を受けた後の12月30日未明に死去した。遺体はヴァチカンの地下墓所の簡素な墓に葬られた。

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