伝記
ミシェル・エケム・ド・モンテーニュは、16世紀ルネサンス期のフランスを代表する思想家であり、モラリスト、懐疑論者、人文主義者として知られる。1533年2月28日、ボルドーに近いモンテーニュ城で生まれた。実家は商業で富を築いた家で、曾祖父ラモン・エイケムがモンテーニュの地を買い取って貴族に成り上がった。父はボルドー市長を務めた人で、母方はセファルディム(スペイン系ユダヤ人)の家系であった。
教育は父の考えた計画にもとづいていた。生後まもなく農家に預けられて三年を過ごしたのは、民衆の暮らしに近づけるためだったと父は語ったという。城に戻ってからは、ラテン語を母語にする方針で、フランス語を話さないドイツ人の家庭教師をつけられ、家の者たちも子どもにはラテン語で話しかけるよう命じられた。6歳になるまで、ほぼラテン語だけで育てられたのは、当時としても特異な教育法であった。ギリシア語は、書物ではなく遊びや会話を用いた方法で学んだ。1539年ごろ、ボルドーの名門学寮ギュイエンヌ学院に送られ、13歳までに全課程を修めた。
トゥールーズで法学を学び、法官となった。1557年、ボルドー高等法院に勤めていたとき、人文主義者エティエンヌ・ド・ラ・ボエシと親しくなったが、ラ・ボエシは1563年に死去し、モンテーニュは深い悲しみに沈んだ。1565年に結婚し、6人の娘が生まれたが、成人したのは1人だけであった。1568年に父が没するとモンテーニュ城を相続し、1570年、37歳で法官を辞して故郷に戻った。やがて『エセー(随想録)』の執筆を始めた。1580年にその初版(2巻本)がボルドーで刊行された。
同じ1580年から翌年にかけて、フランス、ドイツ、オーストリア、スイスを経てイタリアへ旅した。都市ごとの宗教の違いなどを詳しく記した原稿は死後に見つかり、1774年に『旅日記』として出版された。イタリア滞在中の1581年にボルドー市長に選ばれたと知って帰国し、1585年まで二期務め、カトリックとプロテスタントの仲介に努めた。法官辞任後は、カトリックのシャルル9世とアンリ3世から侍従に任ぜられる一方、1577年にはプロテスタントのナヴァール公アンリの侍従にもなり、アンリは即位前の1584年と1587年にモンテーニュの城館を訪れたことがある。宗教戦争のさなか、自らはカトリックの立場でありながら、新教徒にも人脈をもつ穏健派として融和に努めた。任期の終わりごろボルドーでペストが流行し、彼も避難した。アンリ4世即位後の1590年には顧問に望まれたが辞退した。
『エセー』の「エセー」とは「試み」の意味である。体系的な哲学書ではなく、自らの経験や古典の引用をもとにした考察であり、プラトン、アリストテレス、プルタルコス、セネカなど古典古代の文献からの引用が多く、聖書からの引用はほとんどない点が特徴である。宗教戦争下の狂乱の時代にあって、寛容の精神に立って、正義を振りかざす者に懐疑の目を向けた。1588年に第3巻と大幅な加筆を加えて刊行し、その後も死の直前まで余白に書き込みを続けた。1592年9月13日に没し、死後の1595年に、マリ・ド・グルネとピエール・ド・ブラックが大きく改訂した新版を出した。デカルトやパスカルに大きな影響を与えたが、のちに無神論の書として禁書(1676年)とされた。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィルヘルム・デア・ユンゲレ (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1592年没)
- ペドロ・サルミエント・デ・ガンボア (1592年)
- エリザベート・ドートリッシュ (1592年没)
- ヤコポ・バッサーノ (1592年没)
- ドロテア・ズザンナ・フォン・デア・プファルツ (1592年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャック・ターナー (映画監督) (1977年没)
- ピエール=ポール・グラーセ (1873年没)
- Solange Sanfourche (2013年没)
- ブラントーム (フランスの作家) (1614年没)
- アルベール・ギョーム (1942年没)