HISTORICAL PERSON · 1593年没

ジュゼッペ・アルチンボルド

イタリア・ミラノ出身でマニエリスムを代表する画家。果物・野菜・動植物などを寄せ集めた珍奇な肖像画で知られる。ウィーンで宮廷画家としてフェルディナント1世らに仕え、宮廷の装飾や祝典の企画も手がけた。

生涯
1593年没
死亡地
イタリア共和国(ミラノ県 / ミラノ)
出生地
イタリア共和国(ミラノ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ミラノ県)

伝記

ジュゼッペ・アルチンボルドは、イタリアのミラノ出身の画家で、マニエリスムを代表する画家の一人とされる。1593年7月11日にミラノで没した。生年は1526年とされ、ミラノの死亡記録に66歳とあったことから1527年ごろとする説もあるが、1587年の年と61歳の年齢が記された自画像から、現在は1526年が最も有力とみなされている。画家の息子として生まれ、家系には高位の聖職者や弁護士のほか、父ビアージョをはじめ芸術家も出た。若い頃のことはほとんど分かっていない。

最初の記録は1549年で、父とともにミラノの大聖堂の装飾に取り組み、ステンドグラスの下絵を手がけた。これらの仕事は1559年まで続き、各地の大聖堂で下絵やフレスコ画も制作した。1558年に聖母マリアを描いたタペストリーの下絵を手がけ、それは今もコモ大聖堂に飾られている。ミラノを含む北イタリアは1525年からハプスブルク家の支配下にあり、やがて評判が広まった。1562年にフェルディナント1世の宮廷画家となり、のちにその息子マクシミリアン2世と、孫のルドルフ2世にも仕えた。1564年にマクシミリアン2世から宮廷画家に任じられたとする記述もある。

宮廷では肖像画のほか、宮廷の装飾や衣装のデザインも担った。祝典や馬上槍試合の企画、水力技師としても非凡な才能を示し、ハープシコードのような楽器も発明した。皇帝の驚異の部屋の収集品を充実させる仕事や、収集の助言役も務めたという。その後、果物、野菜、動植物、本などを寄せ集めて人の顔や姿にした風変わりな肖像画で世に知られるようになり、『四季』や『四大元素』の連作は、1569年の元日に皇帝へ献上された。同時代の美術理論家ロマッツォはこれを「複合された頭」と呼んだ。1572年と1573年にも『四季』の連作を描き、その一組はルーヴル美術館にあり、『秋』は1573年の作である。ザクセン選帝侯アウグストは1570年と1573年にウィーンを訪れて作品を見て、自らの紋章を組み込んだ『四季』の複製を注文した。1570年にはマクシミリアン2世のために、神話を主題とする大がかりな行列の企画にも当たった。1575年からは、マクシミリアンの息子ルドルフ2世の宮廷画家となった。宮廷を楽しませる珍奇な作品だったが、批評家の間では、気まぐれによるものか精神の錯乱によるものかが議論されてきた。多くの学者は、謎やパズルや風変わりなものに魅了されたルネサンス期を反映した作風であり、彼が精神的に不均衡だったわけではないと見ている。

ウィーンでの公務を退いたのち、故郷のミラノで没した。死因は腎結石とされる。死の少し前に『フローラ』や『ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世』といった傑作を完成させ、プラハに送った。ルドルフ2世はこの風変わりな肖像画を大変気に入り、彼に高い地位を与えたという。1648年にスウェーデンがプラハを侵略した際には、ルドルフ2世の収集品から多くの作品が持ち去られた。作品はウィーンの美術史美術館、インスブルックのアンブラス城、パリのルーヴル美術館などに所蔵され、日本では『ウェイター』が大阪中之島美術館に寄託されている。

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