伝記
ジェームズ・ステュアートは、1908年5月20日にアメリカ合衆国ペンシルベニア州インディアナで生まれ、1997年7月2日に没した俳優である。本名はジェームズ・メイトランド・ステュアートで、愛称はジミーという。長身で誠実な人柄が知られ、日々の暮らしの困難に立ち向かう善良な中流の市民の役を多く演じたことから、「アメリカの良心」と呼ばれた。
父は金物店を営むスコットランド系の長老派信徒で、一家の事業は3代にわたって続いていた。三人きょうだいの長子で、両親は店を継ぐことを期待していた。放課後は地下室で飛行機の模型や機械の製図、化学の実験に打ち込み、パイロットになる夢を抱いていたが、父が海軍兵学校ではなくプリンストン大学への進学を強く求めたため、その夢をあきらめたという。大学では建築学を学び、のちに音楽や演劇のクラブにも引かれていった。卒業後は、のちに映画監督となるジョシュア・ローガンやヘンリー・フォンダらがいる学生演劇集団に加わり、ニューヨークで彼らと共同生活を送った。しかし世界恐慌の不況で仕事はほとんどなく、俳優をやめることも考えたという。
ヘンリー・フォンダに誘われてハリウッドへ行き、MGMと契約した。舞台で共演した女優ヘッダ・ホッパーの推薦で『舗道の殺人』(1935年)に出て映画デビューし、翌年の『超スピード時代』で初主演を果たした。フランク・キャプラは彼の「どこにでもいそうでどこにもいない」平凡な魅力に着目し、『我が家の楽園』(1938年)と『スミス都へ行く』(1939年)で主役に抜擢した。作品は大ヒットして、彼はスターとなる。『フィラデルフィア物語』でアカデミー主演男優賞を受け、1948年にはアルフレッド・ヒッチコック監督の『ロープ』に主演した。ヒッチコックお気に入りの男優として、計4本で主演している。
第二次世界大戦では自ら軍隊に志願し、陸軍航空軍のB-24爆撃機のパイロットとして20回出撃した。飛行時間は1800時間に及び、1945年3月に大佐へ昇進した。戦後の1959年7月に空軍准将となり、1968年3月に退役したのちに少将に昇進した。ハリウッドの俳優としては最高位とされる。戦後に映画会社が戦争映画への主演を持ちかけると、彼は「本物の戦争を見てきた人間が、戦争映画に出たいと思いますか」と述べて断り、『素晴らしき哉、人生!』(1946年)や『ハーヴェイ』(1950年)といったヒューマン・コメディに主演した。『ウィンチェスター銃'73』(1950年)をはじめとする西部劇でも新境地を開き、この作品では、作品の利益から一定の率で出演料を受け取る契約を初めて結んだ。
1949年、41歳で元モデルのグロリア・マクリーンと結婚し、双子の娘をもうけたほか、二人の男児を養子に迎えた。そのうち一人のロナルドは24歳でベトナム戦争に従軍して亡くなった。結婚は生涯一度きりで、ゴシップとは無縁のスターだった。1947年の赤狩りでは体制側を支持したため、革新派を支持する親友フォンダと大喧嘩になったが、のちに和解し、以後二人は政治の話を一切しなかったという。ゴールデングローブ賞では1965年にセシル・B・デミル賞を受けた。長年の功績に対しアカデミー名誉賞も贈られ、授与年は1984年とも1985年ともいわれる。
親友ゲイリー・クーパーが『ヨーク軍曹』でアカデミー賞を受けた際には、軍服姿で授賞式にプレゼンターとして出席し、クーパーにオスカー像を手渡した。後年、演技の秘密を問われると、自分は演じているのではなく相手に応じて動いているだけだと答えたという。
同じ年に亡くなった人物
- ディック・ファン・ダイク (1997年没)
- John White (1997年没)
- ゲオルク・ショルティ (1997年没)
- マリア・プリマチェンコ (1997年没)
- ジェームズ・ミッチェナー (1997年没)
同じ地域に関係する人物
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- ホバート・ボズワース (1943年没)
- スタン・ケントン (1979年没)
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