HISTORICAL PERSON · 1997年没

ヌスラト・ファテー・アリー・ハーン

パキスタンのミュージシャンで、イスラム神秘主義スーフィズムの儀礼音楽カッワーリーの歌い手。世界的に高い評価を受け、歴史上の偉大な歌手にも選ばれた。

生涯
1997年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
パキスタン共和国(ファイサラーバード)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンは、1948年10月13日にパキスタンのパンジャーブ州ファイサラーバードで生まれた歌い手である。イスラム教神秘主義のスーフィズムにおける儀礼音楽「カッワーリー」を代表する存在で、日本ではヌスラット・ファテ・アリ・ハーンと表記されることも多い。父のウスタード・ファテー・アリー・ハーンは卓越したカッワーリー演奏家で、ただ一人の兄弟であるファッルーフも、同じくカッワーリー演奏家である。一族は代々、およそ600年のあいだカッワーリーを家業として受け継いできたとされる。

ところが、父は当初、息子に家業を継がせるつもりがなかった。カッワーリーの音楽家は社会的地位が低いと感じており、もっと尊敬される道、たとえば医者になることを望んでいたのである。それでも少年が才能と関心を見せたため、父は態度を和らげ、芸の訓練を施した。喉を震わせる独特の唱法であるカヤールの伝統に基づく歌も教えた。1964年、ヌスラトがまだ学生だった時期に父が亡くなり、訓練は未完のまま、父方の叔父ウスタード・ムバーラク・アリー・ハーンが引き継いだ。父の死から10日目、ヌスラトは、父が現れて自分の喉に触れながら歌を伝える夢を見たという。歌いながら目を覚ました彼は、この夢をきっかけにカッワーリーを生涯の仕事とする決意を固めた。40日後の父の葬儀で、初めて聴衆の前で歌った。

叔父の指導を受けて、1965年に一座のリーダーとなった。同年3月にはラジオ・パキスタンの音楽祭「春の祭り」の放送で、一座として最初の公開演奏を行った。現代カッワーリーを代表する存在と見なされるまでにはその後さらに数年を要したが、そうなると、たちまち20世紀を代表するカッワーリーの歌い手として地位を築き、パキスタンとインドで大スターになった。ウルドゥー語と母語のパンジャーブ語に加え、ペルシャ語でも歌った。1971年に叔父が亡くなると、一族のカッワーリー・グループを引き継いだ。パキスタンでの最大のヒット作は『ハック・アリー・アリー』で、伝統的な様式と楽器による演奏に、わずかに加えた革新的な即興が彩りを添えていた。ギネス・ブックによると、カッワーリーの分野で最も多くのアルバムをリリースした人物で、その数は125枚にのぼる。

西洋の大勢の聴衆の前で公演した南アジア初期の歌手の一人でもある。ピーター・ガブリエルとの交友を通じて、マーティン・スコセッシ監督の映画『最後の誘惑』のサウンドトラック『パッション』(1988年)などに参加し、欧米や日本での知名度を高めた。カナダのギタリスト、マイケル・ブルックが手がけたリミックス・アルバム『ナイト・ソング』(1994年)と『スター・ライズ』(1997年)がある。1995年には映画『デッドマン・ウォーキング』のサウンドトラックで、パール・ジャムのエディ・ヴェダーと共演した。日本では1987年に国立劇場で初来日公演を行い、1992年のウォーマッド横浜などでも演奏した。1996年には福岡市に招かれ、第7回福岡アジア文化賞の芸術・文化賞を受けている。

1997年、腎臓移植のためパキスタンからロサンゼルスへ向かう途中、ロンドンで倒れ、8月16日に48歳で亡くなった。遺体はファイサラーバードに送られ、数千の人々が参列する中で葬儀と埋葬が営まれた。Q誌が選んだ「歴史上最も偉大な100人のシンガー」では第56位に挙げられている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物