伝記
ジェフ・バックリィは、1966年11月17日にアメリカ合衆国カリフォルニア州アナハイムで生まれたシンガーソングライターである。父は1960年代から1970年代に活躍したティム・バックリィ、母はマリー・グーバートで、ジェフリー・スコット・バックリィと名付けられた。しかし誕生時にはすでに両親は離婚しており、父とは8歳のころに一度会っただけだった。母がロン・ムーアヘッドと再婚したため、少年期はスコッティ・ムーアヘッドとして育ち、南カリフォルニアで何度も引っ越しを重ねた。1975年に父が薬物の過剰摂取で亡くなると、バックリィ姓を継ぐことを決め、出生証明書にあった本来の名ジェフを名乗るようになった。
母がピアニスト兼チェリストだったこともあり、音楽に恵まれた環境で育ったと本人は語っている。初めて買ったアルバムはレッド・ツェッペリンの『フィジカル・グラフィティ』で、キッスも幼少のころのお気に入りだった。5歳でギターを弾き始め、高校に入るころにはプログレッシブ・ロックやジャズ、フュージョンを愛好し、学校ではジャズ・バンドに所属した。卒業後はハリウッドに移って音楽学校ミュージシャンズ・インスティチュートに入り、1年の課程を修めたが、のちにこの学校を「最大の時間の無駄」と述べた一方、音楽理論の勉強は評価している。その後はホテルで働きながら、ジャズやレゲエ、ヘヴィメタルなど様々なバンドで演奏した。
1990年にニューヨークへ出たものの、思うような機会は得られず、同じ年のうちにロサンゼルスに戻った。ニューヨークではパキスタンのカッワーリー歌手ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンの音楽に出会い、熱心なファンとなった。ロサンゼルスでは、父の元マネージャーに連絡を取って、初めてのデモテープ『バビロン・ダンジョン・セッションズ』を作ったが、脚光は浴びなかった。転機は1991年で、ニューヨークで開かれた父のトリビュート・コンサートに「ティム・バックリィの息子」として出演し、人前で歌うことになった。以後はクラブでの演奏を重ねて、少しずつ知られていった。
1992年にコロムビア・レコードと契約し、1993年12月には、拠点にしていたイースト・ヴィレッジのクラブ「シネ」での弾き語りを収めた4曲入りのライブEPを発表した。1994年9月に、生前唯一となるスタジオ・アルバム『グレース』を出す。当初の売れ行きは芳しくなかったが、ジミー・ペイジ、ロバート・プラント、エルトン・ジョンら各界の著名人から高く評価され、その後押しを受けて売り上げも伸びた。1995年1月には日本公演を行い、東京、福岡、大阪、名古屋を回っている。
1997年はセカンド・アルバムを制作中だった。5月29日の夜、ミシシッピ川の支流で泳いでいる最中に溺れて、30歳で亡くなった。友人と食事をした後、ブーツを履いたまま川に入り、レッド・ツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」を歌いながら泳いでいたが、同行者が目を離した瞬間に姿が消えた。遺体が見つかったのは5日後の6月4日である。酒は飲んでいたが、薬物の使用の形跡や遺書はなく、事故死とされている。後に双極性障害を患っていると親しい者に明かしていたことが分かり、自殺説もささやかれた。死後は未完のアルバムや未発表曲などが発表され、2007年には『グレース』の「ハレルヤ」が全英シングルチャートで2位を獲得した。ローリング・ストーン誌の「歴史上最も偉大な100人のシンガー」では第39位に選ばれている。
同じ年に亡くなった人物
- ジョルジュ・マルシェ (1997年没)
- ボゾルグ・アラヴィー (1997年没)
- K. Shivaram Karanth (1997年没)
- ロベール・パンジェ (1997年没)
- チャールズ・ハギンズ (1997年没)
同じ地域に関係する人物
- アーサー・リー (2006年没)
- ビル・モンロー (1996年没)
- アルバート・ジョンストン (1862年没)
- ジョン・テート (1998年没)
- フレッド・トンプソン (2015年没)