伝記
アイザイア・バーリンは、1909年6月6日に、当時ロシア帝国の支配下にあったリガ(現在のラトビア)で生まれたイギリスの哲学者、思想史家である。ユダヤ系の裕福な家の一人息子で、父のメンデルは木材商人だった。一家はバルト地方でも有数の木材会社を営み、ロシア各地に森林を持っていた。父は西側の企業との取引を担当してイディッシュ語、ロシア語、ドイツ語のほか、フランス語と英語にも通じていた。母のマリーはロシア語を話し、イディッシュ語とラトビア語にも通じていた。最初の6年間をリガで過ごし、その後はプスコフ近くの木材の町アンドレアポリに住んだ。
1915年、第一次世界大戦でドイツ軍が侵攻すると、一家は当時のロシアの帝都ペトログラードへ移った。バーリンは二月革命と十月革命を、自宅の窓から、また家庭教師と歩く町の中で目撃し、冬宮広場へ向かうデモの群衆を覚えていたという。二月革命の幼い日の記憶が、のちの暴力への生涯にわたる反対を形づくったと本人は語っている。ボリシェヴィキの支配のもとで一家はブルジョワと見なされ、息苦しさを覚えて、1920年10月5日にペトログラードを出てリガに戻った。しかし反ユダヤ主義にぶつかり、ラトビア当局との間にも困難が生じたため、まもなくイギリスへ移ることになった。ロシア語が母語で、渡英した当初はほとんど英語を話せなかったが、12歳のころには英語を使いこなすようになった。
ロンドンのセント・ポールズ・スクールを経て、オックスフォード大学のコーパス・クリスティ・カレッジに学び、1932年、23歳でオール・ソウルズ・カレッジの特別研究員に選ばれた。ツルゲーネフの作品をロシア語から英語に訳す仕事もしている。第二次世界大戦中は戦時勤務の要員として1946年まで英国外務省に勤めた。1957年にはオックスフォード大学のチチリ講座教授(社会・政治理論担当)に就き、1967年まで務めた。1963年から翌年までアリストテレス協会の会長を務め、1966年から1975年まで、設立に関わったオックスフォードのウォルフソン・カレッジの初代学長となった。1974年から1978年にはイギリス学士院長を務めている。
代表作の論考集『自由論』では、自由を積極的自由と消極的自由に分け、自由をめぐる議論に大きな影響を与えた。ほかに『ハリねずみと狐』『カール・マルクス』などの著作がある。リベラル理論と価値多元論、そしてマルクス主義や共産主義への反対という立場は、後世に影響を残した。本人は出版のための執筆を次第に避けるようになったが、即興の講演や談話が録音され、文章に起こされて、多くの論文や本になった。1974年からは編集者のヘンリー・ハーディーが主にその整理にあたった。
1977年には国際交流基金の招きで来日した。1979年にはエルサレム賞を、1983年にはエラスムス賞を受けている。1987年には連続講演「理想の追求」を行った。叙勲も多く、メリット勲章を授与されたほか、ナイトに叙せられた。1994年にトロント大学の名誉学位を受けた際には、自身に代わって代読される短い信条の文章を用意し、これはのちに「二十一世紀へのメッセージ」として知られるようになった。1997年11月5日、病気のため88歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン=ドミニック・ボービー (1997年没)
- ボー・ヴィーデルベリ (1997年没)
- Abdelkader Ben Bouali (1997年没)
- ジョン・ハーワード・ヨーダー (1997年没)
- ラヴァーン ・ベイカー (1997年没)
同じ地域に関係する人物
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- モイラ・シアラー (2006年没)
- ロバート・ダドリー (初代レスター伯) (1588年没)
- ジャック・ベレスフォード (1977年没)
- リチャード・ドール (2005年没)