伝記
ウィリアム・シュワード・バロウズ二世は、1914年2月5日にアメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスで生まれた小説家で、1950年代のビート・ジェネレーションを代表する作家の一人である。祖父の初代ウィリアム・シュワード・バロウズは、加算機の駆動を安定させる装置を発明し、バロース加算機社を設立した人物だったが、43歳で早世した。残された息子たちは遺産管理人の助言に従って、相続した株や特許を売ってしまった。父モーティマーはガラス工場を営む中小企業主で、バロウズはアメリカ中西部で退屈な少年時代を送った。高校時代は魚釣りや狩猟、ハイキングを好み、何よりも本をよく読んだが、学校にはまったくなじめなかった。
母ローラの期待に応える形でハーバード大学に入り、英文学を専攻してT・S・エリオットを研究したが、それ以外に興味を持てる学科がなかったからだとされる。在学中にはニューヨークのハーレムやグリニッジ・ヴィレッジで、同性愛の人々と交わる経験もした。1936年に大学を出たのちは、毎月の信託財産の仕送りがあったため、当初は働く必要がなかったと本人は述べている。だが、かさむ麻薬代を工面するために、働かなければならなくなった。世界恐慌のさなかで、ハーバード卒の学歴も役に立たず、ヨーロッパを旅してウィーンの医学校に入ったが、通ったのは6か月にすぎなかった。この地では、ユダヤ人女性イルゼ・クラッパーと形だけの結婚をして、彼女がアメリカへ逃れる手助けをした。帰国後は、シカゴで一般意味論のセミナーを受け、コロンビア大学とハーバード大学の大学院で心理学や人類学の講義を聴き、3年ほど精神分析の治療も受けた。精神分析医が彼の性的指向を執拗に問題にしても、彼は気に留めずに治療を終えたという。
その後は住む場所を転々とし、ニューヨークでビート世代の詩人アレン・ギンズバーグや作家ジャック・ケルアックと知り合った。ジョーン・フォルマー・アダムズと暮らし、一時はニューオーリンズに住んだが、離婚をめぐる問題を抱えていた。1949年からメキシコシティに住み、そこでフォルマーを射殺する事件を起こして刑事責任を問われた。事件についての彼の説明は二転三転している。フォルマーは28歳であった。1953年にデビュー作『ジャンキー』を発表したが、文学界の反響はなく、一時は作家になることを諦めた。同じ年にモロッコのタンジールに移り、15年以上浸ったドラッグと決別する姿勢を見せはじめる。1959年、ギンズバーグらの熱心な勧めと手助けで、書き溜めた文章をもとに『裸のランチ』を出した。内容が猥褻だとして合衆国政府から発禁処分を受けたが、それがかえって話題を呼び、実験小説の雄として祭り上げられた。
友人のブライオン・ガイシンとともに、文章を刻んでランダムにつなぐ「カットアップ」の手法を編み出し、これを駆使した作品を何作か発表した。1980年代からは、物語性を重んじる作風に移っている。1960年代以降はSFの分野でも注目され、J・G・バラードやジュディス・メリルは、彼の作品を「理想的なSF」と呼んだ。『裸のランチ』は1992年にデヴィッド・クローネンバーグ監督によって映画化されたが、原作を忠実になぞったものではなく、監督が新たに再構成した作品だとされる。
一度はドラッグから足を洗ったバロウズだが、65歳の1979年に再びヘロイン依存に陥った。1997年8月2日に83歳で亡くなったとき、メサドンによる維持療法を受けていた。
同じ年に亡くなった人物
- キャサリン・エソー (1997年没)
- 松丸貞一 (1997年没)
- Ziya Bunyadov (1997年没)
- Ferenc Sipos (1997年没)
- Misael Pastrana Borrero (1997年没)
同じ地域に関係する人物
- ビクター・パパネック (1998年没)
- フランク・スプレイグ (1934年没)
- George Tiller (2009年没)
- ジョン・クック (陸上選手) (1986年没)
- ジュリー・ガーウッド (2023年没)