伝記
スヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ・リヒテルは、1915年3月20日、現在のウクライナにあるジトーミルに生まれたソ連のピアニストである。父はドイツ人のピアニストで、代々ルター派の商家の出であり、母はロシア人の素封家の娘であった。幼いころ一家はオデッサへ移り、父は同地のドイツ系ルター派教会の聖パウロ教会で合唱団長やオルガン奏者を務め、音楽学校でも教えた。両親は息子の音楽教育に腐心したが、音楽家にするつもりはなかったという。ピアノは独学で始め、1931年に15歳でオデッサ歌劇場の練習ピアニストに採用され、多くのオペラ曲を初見で弾いた。1934年、19歳のときにショパンだけの小さな初リサイタルを開き、成功した。父はスターリンの粛清で1937年に逮捕され、ドイツ軍がオデッサを占領する直前の1941年に、ドイツのスパイの嫌疑で処刑された。母は作曲家セルゲイ・コンドラチエフと再婚し、迫害を逃れてドイツへ亡命した。
1937年、22歳でモスクワ音楽院に入り、ゲンリフ・ネイガウスらに師事した。モスクワへの移住は、ドイツ系ルター派の信徒という危うい立場から彼を救うことになった。入学時にすでに完成された演奏家だったといわれ、ネイガウスは「何も教えることはなかった」と語ったが、本人は多くを学んだと述べている。ネイガウスの紹介でプロコフィエフと親しくなり、1943年1月18日にモスクワでピアノソナタ第7番を初演して成功を収め、翌年には3曲の戦争ソナタでリサイタルを開いた。1945年には30歳で全ソビエト音楽コンクールのピアノ部門で第1位に輝いた。プロコフィエフが政府から批判されたときも、変わらず行動を共にした。
1950年に東欧で初公演したが、西側への演奏旅行はなかなか許可されなかった。父を処刑され、母が国外にいる事情から、亡命を警戒されたともいわれる。そのため西側では評判だけが伝わり、「幻のピアニスト」と呼ばれた。1958年にはソフィアでのリサイタルの録音がレコードになって西側でも発売され、『展覧会の絵』を含むこの録音は名演と称えられた。同年の第1回チャイコフスキー国際コンクールでは審査員を務め、優勝したヴァン・クライバーンに満点の25点をつけ、他のピアニスト全員に0点をつけた。1959年にはドイツ・グラモフォンがワルシャワで録音し、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番は名演と称えられて評価は揺るがない。1960年5月にようやく西側での演奏が許され、ヘルシンキに「伴奏者」として派遣された。同年10月からアメリカ各地で演奏し、10月15日にシカゴ交響楽団とブラームスのピアノ協奏曲第2番で、19日にはカーネギー・ホールで独奏会を開き、大成功を収めた。1962年にはウィーンでカラヤンとチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を録音し、ロングセラーとなった。
飛行機嫌いで来なかった日本には、1970年の万国博覧会の際に初めて来日し、以後たびたび来日した。1969年にヤマハのピアノに目を止め、愛用するようになった。1981年からはプーシキン美術館で音楽祭「12月の夕べ」を毎年冬に開いた。理想としたのは、ピアノをトラックに積んで旅し、前触れなく教会のある街で無料で弾き、また旅立つ生活だったという。1952年に手の骨を折ってピアノが弾けなくなった際には、生涯にただ一度の指揮を経験し、ロストロポーヴィチと共演したプロコフィエフの『交響的協奏曲』の初演を指揮した。晩年は、照明を落として楽譜を見ながら弾く試みも採り入れた。1997年8月1日にモスクワで、82年の生涯を閉じた。
同じ年に亡くなった人物
- バリー・エバンス (1997年没)
- 星新一 (1997年没)
- ヴァルター・ベーレント (1997年没)
- ルイ・ナポレオン (ナポレオン公) (1997年没)
- Dequinha (1997年没)
同じ地域に関係する人物
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- レフ・クリジャーノフ (2002年没)
- イエロニム・ウボレヴィッチ (1937年没)
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