HISTORICAL PERSON · 1594年没

ティントレット

ヴェネツィア派を代表するルネサンス期の画家。ティツィアーノの色彩とミケランジェロの形体を結びつけ、情熱的な宗教画を描いた。名は染物屋の息子に由来する。

生涯
1594年没
死亡地
イタリア共和国(ヴェネツィア県 / ヴェネツィア)
出生地
イタリア共和国(ヴェネツィア)
出典
世界地図
イタリア共和国(ヴェネツィア県)

伝記

ティントレットは、ルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家で、師のティツィアーノ、ヴェロネーゼと並び称される。1518年9月29日に生まれ、1594年5月31日に没した。本名はヤコポ・コミンで、ロブスティの名でも知られる。父ジョヴァンニ・バティスタは染物屋であり、そこから「ティントレット」、つまり染物屋の息子と呼ばれた。ロブスティの名は、父がパドヴァの城門を勇敢に守ったことに由来するとされる。家族はブレーシャの出とされるが、のちの研究はトスカーナのルッカを挙げている。生まれたときの記録が失われたため生年ははっきりせず、死亡記録が75歳としていることから、およそ1518年と推定されている。

幼い頃から壁に絵を描く子で、父はその才能に気づき、ティツィアーノの工房へ連れて行ったという。1642年にティントレットの生涯を出版したカルロ・リドルフィによれば、彼は父の手でティツィアーノの門下となった。しかし師弟関係は長くは続かず、ティツィアーノから画家としての熟達を認める署名を与えられて工房を出た。師への敬慕は変わらなかったものの、二人の関係は生涯にわたって疎遠だったとされる。以後は独学で、ジュリオ・ロマーノやアンドレア・スキアヴォーネらの作品と、古代の彫刻や、ミケランジェロの彫刻を手本に修行を続けた。工房には「ミケランジェロの素描とティツィアーノの色彩」と掲げたといわれるが、この話には異論もある。1539年の文書は、彼が自らを親方と称していたことを示し、その頃から独立した画家として活動していたと考えられる。

1548年に『聖マルコによる奴隷の解放』をサン・ロッコ同信組合から依頼され、これを皮切りに公的な仕事を引き受けるようになった。同信組合は中世に、組合員への物心両面の支援を目的として生まれた宗教的な組織で、16世紀半ばにはトリエント公会議の影響で急速に広がった。ティントレットはサン・ロッコ同信会館などで制作した。並外れた才能の持ち主で、とりわけ早描きで知られた。聖ロクス兄弟会のために作品を制作したときは、他の画家が素描を仕上げる間にタブローを完成させてしまったという。才能を揮う機会を貪欲に求め、スキアヴォーネなどの仕事を報酬なしで手伝ったとも伝えられる。

1550年頃にファウスティーナ・エピスコピと結婚した。彼女はサン・マルコ同信組合の番人だったマルコの娘で、二人の間にはマリエッタ、ドメニコ、マルコが生まれ、いずれも工房で働いた。ドメニコは歴史画では父に及ばなかったが肖像画で腕を示し、娘のマリエッタも肖像画を得意とする画家になった。ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿や、当時市内に多くあった信徒会の会館のために、数多くの作品を残した。作品は、斬新で大胆な構図とドラマティックな表現を特色とし、『聖パウロの改心』のような聖書の場面を壮大な劇のように描いて、次の世紀のバロック絵画を先取りしたといえる。晩年の代表作、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の『最後の晩餐』では、食卓を画面の手前から奥へ斜めに置き、舞台照明のような光を用いた。長い生涯のほとんどをヴェネツィアで過ごし、そこで死んだ、生粋のヴェネツィア人であった。遺骸は自身の作品で彩られた教会に埋葬された。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物