伝記
ネコ1世は、古代エジプトのナイル・デルタの都市サイスの統治者で、のちの第26王朝の祖となった人物である。生年は伝わっておらず、没したのは紀元前664年とされる。ネコはギリシア語の読みで、エジプト語ではネカウという。サイスの王として実在がはっきり確認されている第26王朝の最初の人物で、在位は紀元前672年から前664年までの8年間とされる。この年数はマネトの断片的な記述にもとづく。
ネコ1世の存在は、もとはアッシリアの文献によって知られていたが、今日ではその治世のエジプトの記録も見つかっている。治世の第2年を記した石碑は個人が所有しており、オリヴィエ・パデューが公表した。これによると、セベニトスに近いペルヘビトのオシリス三神(オシリス、イシス、ホルス)の神殿に、イシスの神官アカノシュが広大な土地を寄進した。ほかにも、ネイト女神への献辞と王名を記した釉薬陶器のホルス像や、ネコ王を表すブロンズの跪座像が残るが、後者はネコ2世の像である可能性もある。
アッシリア王エサルハドンがエジプトに侵攻すると、ネコはその家臣の一人となった。エサルハドンはネコの地位と所領を認めたうえ、メンフィスを含むとみられる新たな領地を与えたという。その後、第25王朝のタハルカが南からデルタに迫ると、エサルハドンはこれを撃退しようとしたが、急死した。後を継いだ子のアッシュールバニパルは、紀元前667年ごろに父の計画した反攻を実行した。タハルカはテーベまで追われたが、アッシュールバニパルは、逃げた王と下エジプトの支配者の一部、すなわちペルシソペドゥのペクルル、シヌのシャッルルダーリ、そしてネコが自分に対して陰謀を企てていることを知った。アッシリア王は陰謀者を捕らえ、都市の住民の一部を殺し、捕虜をニネヴェに送った。
ところが意外にも、ネコは赦された。サイスに復帰して以前の所領を保ち、新たな領地も贈られ、子のプサメティコス(アッカド語でナブシェズィバンニ)はアトリビスの長官とされた。アッシュールバニパルは、第25王朝との再度の戦いに備えてエジプト人の同盟者の忠誠に頼ろうとし、またクシュ人とサイス人の両家の間の対抗を強めようとしたのではないかと考えられている。しかしネコ1世は、タハルカの後継者タヌトアメンが率いるクシュ勢の新たな攻勢からその領地を守る戦いの中で、メンフィスの近くで殺されたと伝わる。プサメティコスはアッシュールバニパルの庇護のもとニネヴェに逃れた。ヌビア勢のデルタへの侵攻は、紀元前664年にアッシリアに撃退され、アッシリア軍は上エジプトへ南進してテーベを陥れた。
デルタが再び確保されると、亡き父の地位と所領はプサメティコス1世が受け継ぎ、のちに彼はエジプトを自分の支配のもとに再統一した。ネコ1世の孫がネコ2世である。家族については諸説がある。ネコ1世はテフナクト(おそらくテフナクト2世)の子とする説や、サイスの王であった可能性のあるネケプソス(ネカウバ)の兄弟とする見方がある。イステマベトと結婚し、プサメティコス1世とその姉妹たちをもうけたと考えられている。また、ルクソールの失われた石灰岩のまぐさ石に、王名を示す枠に囲まれた「ネコ」の名をもつ王の娘として、アメン神の歌い手メレサムンが描かれていた。この娘をテーベのアメン神域に送ったのはネコ1世とみられ、テーベにおけるサイスの影響の始まりを示すとされる。
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