HISTORICAL PERSON · 1998年没

ウラジミール・プレローグ

スイスの化学者。有機化学者としてアルカロイドなどを研究し、1975年に天然化合物と立体化学の研究でノーベル化学賞を共同受賞した。

生涯
1998年没
死亡地
スイス連邦(チューリッヒ州 / チューリッヒ)
出生地
ボスニア・ヘルツェゴビナ(サラエヴォ)
出典
世界地図
スイス連邦(チューリッヒ州)

伝記

ウラジミール・プレローグは、1906年7月23日に、当時オーストリア・ハンガリー帝国の統治下にあったボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォで生まれたクロアチア系スイス人の化学者である。クロアチア人の両親が同地で働いていたときの子で、父ミランはザグレブ出身の歴史学者であり、サラエヴォのギムナジウムで、のちにザグレブ大学で教えた。8歳のころ、フランツ・フェルディナント大公が暗殺された現場の近くに立っていたという。第一次世界大戦が始まった1915年に、一家はザグレブへ移った。1919年から2年間は父の仕事の都合でオシエクに住み、そこで教師イヴァン・クリアに化学への興味をかき立てられた。1921年にはクリアの助けで、滴定の装置についての短い報告をドイツの権威ある雑誌に発表している。

1924年にザグレブで中等教育を終え、父の望みに従ってプラハへ移り、1928年にチェコ工科大学で化学工学の学位を取り、1929年には博士号を得た。教師エミール・ボトチェックと、助手のルドルフ・リュークスから影響を受けて、有機化学に引かれた。大恐慌のため大学の職は少なく、プラハの私設の研究所に勤めて、市販されていない珍しい化合物を作る仕事をし、残りの時間にカカオの幹に含まれるアルカロイドを調べた。この勤めは1935年まで続いた。

学問の場で働きたいと願い、1935年にザグレブ大学の工学部に招かれて、有機化学と工業化学を教えた。協力者や学生、またクロアチアの製薬会社の資金援助を受けて、キニーネとその化合物の研究を始め、最初の市販スルホンアミドの一種であるストレプタゾールの開発に成功した。モラヴィアの油田から単離された、変わった環をもつ炭化水素アダマンタンを、世界で初めて合成したのもこの地でのことである。成果は一流のヨーロッパの科学雑誌に投稿され、ザグレブの有機化学は世界に知られた。

1941年、レオポルト・ルジチカの招きでチューリッヒ工科大学に移り、教授にまで昇進した。1957年にルジチカが退官すると有機化学研究室を引き継ぎ、複素環式化合物、アルカロイド、環状化合物、動物の器官にわずかに含まれる生理活性物質の単離、抗生物質の構造、酵素反応の立体化学へと研究の幅を広げた。ステロイド、トリテルペン、キニーネ、ストリキニーネ、ソラニンなどの構造の研究を進め、ロバート・カーン、クリストファー・インゴールドとともに、立体化学に一般に適用できるカーン・インゴールド・プレローグ順位則を確立した。1975年には「自然界の化合物と立体化学の研究への貢献」により、ジョン・コーンフォースとともにノーベル化学賞を受けた。

科学論文は400を超え、雄弁な講師として多くの世代の化学者を育てた。1962年に王立協会外国人会員、1986年にクロアチア科学芸術協会の会員となった。権威を主張せず争いを好まない内省的な人で、社交界、政治、宗教には皮肉と懐疑のまなざしを向け、自分の人生に人を立ち入らせることはまれだったという。1991年にクロアチアで出された109人のノーベル賞受賞者による平和アピールにも加わった。1998年1月7日にチューリッヒで亡くなり、遺灰は2001年9月27日にザグレブのミロゴイ墓地に埋葬された。

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