伝記
ポル・ポトは、カンボジアの政治家で共産主義者である。本名はサロット・サルだが、本人が両者を同一人物と公式に認めたことはない。ただ、兄弟のうち彼の政権下を生き延びた3人の一人ロット・スオンは、同一人物だと述べている。生年は1925年5月19日と1928年5月19日の二説があり、文献によって異なる。生まれ育ったのはフランス領インドシナのプレク・スバウヴで、現在のコンポントム州にあたる。父ペン・サロットは12ヘクタールの土地と水牛6頭を持ち、甥たちを含む約20人で水田を耕した。カンボジア全体では十分に豊かな自作農だが、兄によれば村にはさらに大きな農家もあり、その中では中規模だったという。生家は王宮と縁があり、父の姉が王宮で働き始め、その娘ルク・クン・メアクが王宮舞踊団の踊り手から国王シソワット・モニヴォンの側室になったことで、関係が強まった。
幼少期の説明は文献ごとに食い違う。本人は後年、子供のころは両親と農作業を手伝い、のちに寺で6年を過ごして2年は僧侶だったと語った。一方、兄ロット・スオンの証言を調べた研究者によれば、サロット・サルは水田で働いたことはなく、6歳でプノンペンへ送られて寺で見習いをした後、8歳でカトリックの名門校に入り6年を過ごした。入学にはルク・クン・メアクの助力があったという。14歳でプノンペンの高校の試験に失敗し、コンポンチャムのノロドム・シハヌーク高校に進み、1948年始めにプノンペンの技術学校で木工を学んだ。
翌年、奨学金を得てフランスのパリへ留学し、1949年9月に到着して無線電気の学校で技術課程を受けた。留学中に共産主義者となり、1950年にフランス共産党内に作られた「クメール語セクション」の流れをくむ学生グループに加わった。イエン・サリ、キュー・サムファン、キュー・ポナリー、ソン・センらがいたが、当時のポル・ポトは目立たない存在だった。パリの内部機関紙には「本来のクメール人」というペンネームで1952年8月に記事を書いている。試験に3年続けて失敗して奨学金を打ち切られ、1952年12月に船でパリを去って、1953年1月14日に帰国した。私立高校で歴史を教えながら民主党で活動し、1953年8月には兄を介してヴェトナム国境近くのクメール・イサラク連合の本部へ行き、独立闘争に加わった。1956年にはパリで知り合ったキュー・ポナリーと結婚した。
1954年のジュネーヴ協定でベトナムが撤退し、ポル・ポトは身分を偽ってプノンペンへ戻り、1955年の選挙に向けた調整役を務めた。1960年にはカンボジア労働者党の中央常任委員となり、1963年2月に党大会で書記長に就いた。同年5月にイエン・サリとプノンペンを去り、国境周辺のジャングルでの地下活動に入って「ポル」の名を使い始め、以後12年を地下で過ごした。1964年末にはラオス国境を越えてハノイに入り、中国と北朝鮮も訪れている。
のちにクメール・ルージュの精神的指導者となり、1976年4月14日には民主カンプチアの新首相として公式に発表され、以後ポル・ポトの名が使われた。知識人や旧体制の指導者への迫害とカンボジア大虐殺を主導した。1998年4月15日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- Ahmed Oudjani (1998年没)
- ジョン・デレク (1998年没)
- アンドレ・ヴェイユ (1998年没)
- ロートン・チャイルズ (1998年没)
- アラン・ロイド・ホジキン (1998年没)
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