HISTORICAL PERSON · 303年没

聖フィデス

幼くして殉教したとされるキリスト教の聖人少女。パンを貧者に配っていたことを問われ祈ると花に変わったという逸話で知られ、後にコンクで篤く信仰された。

生涯
303年没
死亡地
フランス共和国(ロット=エ=ガロンヌ県 / アジャン)
出生地
フランス共和国(アジャン)
出典
世界地図
フランス共和国(ロット=エ=ガロンヌ県)

伝記

聖フィデスは、ラテン語でサンクタ・フィデス、フランス語でサント・フォワと呼ばれる、ローマ帝国のキリスト教徒の少女で殉教者である。カトリック教会と聖公会の聖人とされ、10歳または12歳で殉教したといわれる。祝日は10月6日で、巡礼者、囚人、兵士の守護聖人であり、焼き網、剣、棒などで表される。没年は303年とされるが、287年または290年とする説もあり、303年に始まるディオクレティアヌス帝の大迫害の中の出来事とする説もある。

伝承では、フィデスはガリアの都市アジャン、すなわちアキテーヌの貴族もしくは役人の娘として生まれた。当時のローマ帝国ではキリスト教が弾圧されていたが、彼女は乳母に教えられてキリスト教徒となった。家のパンをエプロンに忍ばせ、貧しい人々に配っていたという。ある日、父に見つかってエプロンの中身を問いただされると、神に祈って「お花です」と答えた。すると、パンは紅色の花に変わっていた。

やがてローマの総督がフィデスを尋問し、その信仰が固いことを知ると、鉄製の火あぶり器に彼女を裸で寝かせて火を入れた。そのとき天使(または鳩)が舞い降り、羽ばたいて火を消し、彼女に冠と絹の衣を授けたという。総督はフィデスを斬首刑に処し、彼女は殉教した。5世紀には、アジャンの司教ドゥルキティウスの命により、彼女をたたえる聖堂が建てられた。この聖堂は8世紀に修復され、15世紀に拡張されたが、1892年にアジャンの都市計画のために取り壊された。彼女の名は『ヒエロニムス殉教録』の10月6日の項に載るが、死去の年は記されていない。殉教を語る受難録はかつて存在したが、いまは失われ、9世紀のリヨンのフロルスの殉教録に要約が残る。12世紀には、同じアジャンのカプラシウスやアルベルタの崇敬と結びつき、カプラシウスが丘の上からフィデスの処刑を目にしたという伝説も語られた。

信仰の中心は、アジャンの聖堂よりも、コンクの修道院付属教会に移った。886年、あるいは866年とも伝えられる年に、コンクの修道士がフィデスの聖遺物をアジャンから持ち出し、自分の教会に安置した。コンクはサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路沿いにあり、囚人や病人が救われるなどの奇跡が次々と起こって、巡礼者が絶えなくなったという。信仰は巡礼路に沿って広がり、イングランドやイタリア、南米にも及んだ。1105年にはイングランドのホーシャムに、彼女に捧げられた小修道院が建てられている。

フィデスは巡礼者にいたずらを仕掛けることもあり、これは「聖女の戯れ」と呼ばれた。他の聖人にはあまり見られない性格だという。11世紀初めに編まれた奇跡譚には、城主が亡き妻の約束した指輪を二人目の妻との結婚に使うと、新しい妻の指が耐えがたく腫れ上がり、聖女の社に詣でた三日目の夜に指輪が勢いよく飛び出した、という話がある。彼女は大変なお洒落好きで、夢に現れて宝飾品を祭壇に捧げるよう求めた。一方、教会の財産を奪おうとする者には厳しく罰を下した。信仰を守りながら視力を失った者には視力を取り戻させ、その者が傲慢になるとまた取り上げることもあったという。コンクの金張りの聖遺物箱は、1010年頃のアンジェのベルナールの『聖女フォワの奇跡の書』に描かれている。11世紀後半には、カタルーニャ語で書かれた最古の文学作品とされる『聖女フェの歌』も、彼女をたたえて作られた。

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