HISTORICAL PERSON · 1999年没

スタンリー・キューブリック

アメリカ出身の映画監督。『2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』『シャイニング』など多様なジャンルで芸術性の高い作品を残し、映画史上屈指の巨匠とされる。

生涯
1999年没
死亡地
イギリス連邦(ハートフォードシャー / Childwickbury Manor)
出生地
アメリカ合衆国(ブロンクス区)
出典
世界地図
イギリス連邦(ハートフォードシャー)

伝記

スタンリー・キューブリックは、1928年7月26日にニューヨークのマンハッタンで生まれ、1999年3月7日に亡くなったアメリカ合衆国の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。オーストリア=ハンガリー帝国に起源を持つユダヤ人の両親の長男に生まれ、少年時代はチェスやジャズに関心を持ち、とくにカメラが経歴の出発点となった。

高校ではまったく勉強に興味を示さず、成績は低く、教師の温情でどうにか卒業できたという。大学入試にはことごとく失敗し、ニューヨーク市立大学シティカレッジの夜間部に入ったがすぐに中退した。一時はジャズ・ドラマーを目指していたが、ルーズベルト大統領の死を伝える一枚の写真が写真雑誌『ルック』の1945年6月25日号に売れ、見習いカメラマンとして同誌に在籍することになった。『ルック』に載った自身のフォト・ストーリーをもとに、短編ドキュメンタリー『拳闘試合の日』(1951年)を製作した。3900ドルかかった作品が4000ドルで売れ、これをきっかけに同誌を退社した。1953年に親類から借金をして初の長編劇映画『恐怖と欲望』を自主製作し、商業的には失敗したが、ニューヨークの批評家からは賞賛された。続く『非情の罠』(1955年)も、製作費を回収するほどの成功はなかった。

同い年のジェームズ・B・ハリスとハリス=キューブリック・プロダクションズを設立し、『現金に体を張れ』(1956年)や、カーク・ダグラスと共同製作した戦争映画『突撃』(1957年)を送り出して、ハリウッドでの評価を高めた。マーロン・ブランドから小説の映画化を依頼されたものの、意見が対立して解雇された。そのあと、ダグラスの依頼で、降板した監督の代役として製作兼主演のダグラスによる『スパルタカス』(1960年)を手がけ、高評価を得た。しかし現場で脚本を書き換え、脚本家クレジットに自分の名を載せるよう求めたことなどで製作陣と対立した。プロデューサー主導のハリウッドの製作体制に嫌気が差し、1961年にイギリスへ移住し、以後の人生とキャリアの大半を同地で過ごした。ハートフォードシャーの妻クリスティアーヌとの自宅が仕事場となり、脚本の執筆から編集まで製作の細部を管理した。これにより、ハリウッドのメジャー・スタジオの資本を受けながら、完璧主義的な芸術活動が可能になった。

イギリスでの最初の作品は、ナボコフ原作の『ロリータ』(1962年)で、厳しい検閲に遭ったが大ヒットした。続いて『博士の異常な愛情』(1964年)、『2001年宇宙の旅』(1968年)、『時計じかけのオレンジ』(1971年)を発表し、これらの成功で世界中の批評家に認められた。1970年代半ば以降は、『バリー・リンドン』(1975年)、『シャイニング』(1980年)、『フルメタル・ジャケット』(1987年)を監督し、寡作ながら成功を収め続けた。些細な場面も納得するまで撮り続ける完璧主義者として知られ、晩年は製作に時間がかかることでも有名だった。個人で受けたアカデミー賞は『2001年宇宙の旅』の特殊視覚効果賞だけである。

12年ぶりの監督作『アイズ ワイド シャット』の試写会の6日後、1999年3月7日に、公開を待たずハートフォードシャーの自宅で心臓発作により亡くなった。企画を温めていた『A.I.』は、2001年にスティーヴン・スピルバーグが脚本を完成させて公開された。黒澤明は『バリー・リンドン』の時代考証を高く評価し、キューブリックと往復書簡を交わしていたという。

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