伝記
ナタリー・サロートは、1900年7月18日にロシアのイヴァノヴォ(イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク)で生まれ、1999年10月19日にパリで亡くなったフランスの小説家、劇作家である。旧姓はチェルニャーク。ロシアから移り住んだユダヤ人で、ヌーヴォー・ロマンを代表する作家の一人として活躍した。
裕福で教養のある、同化したユダヤ人の家庭に生まれたが、両親は娘が2歳のころ離婚した。母に連れられてジュネーヴを経てパリに移り、毎年2か月は父のもとで過ごした。のちには母と再婚相手とともにロシアのサンクトペテルブルクで暮らした。政治的な意見ゆえにロシアで困難を抱えた父はパリへ亡命し、ヴァンヴで染料の工場を営んだ。娘はパリの父のもとで、父の再婚相手や異母妹と暮らすようになった。1909年から1917年までのこの時期は、本人にとってつらい経験であったとされる。多様な教育を受け、オックスフォードで英語と歴史を、ベルリンで社会学を学び、パリで法学を修めて弁護士となった。弁護士のレモン・サロートと結婚し、のちに一男二女ではなく三人の子、クロード、アンヌ、ドミニクをもうけた。
弁護士の仕事のかたわら、プルースト、ジョイス、ヴァージニア・ウルフの文学に出会い、小説についての考えを大きく揺さぶられた。1932年から、のちに短いテクスト集『トロピスム』となる文章を書きはじめ、刺激に対して起こる、感じ取れないほど微細で自発的な反応を分析した。『トロピスム』は1939年に発表され、ジャン=ポール・サルトルやマックス・ジャコブに称賛された。1940年には反ユダヤ法により弁護士の登録を抹消され、文学に専念する決意をした。大戦中は、ゲシュタポに追われていた劇作家サミュエル・ベケットを一時かくまった。偽造書類を使い、住所を何度も変えて、イル=ド=フランスにとどまった。夫の登録抹消を避けるため、1941年には離婚せざるをえなかった。
戦後、サルトルが序文を書いた第二作『見知らぬ男の肖像』が1948年に刊行されて注目を集めた。その序文でサルトルが名づけた「アンチ・ロマン」という呼び名は、「ヌーヴォー・ロマン」とともに、戦後フランスの従来の小説観を覆す作品の呼称として知られるようになる。成功を収めはじめたのは『マルトロー』(1953年)からで、以後は同じ出版社のガリマール社から本を出し続けた。1956年に評論『不信の時代』を発表した。1960年には、アルジェリア戦争での不服従の権利を宣言する「121人宣言」に署名している。1964年には小説『黄金の果実』で国際文学賞を受けた。
サロートの小説は、他人と関わるなかで、あるいは独りでいるなかで、人間の心の底に起こる自覚されない動きを捉えようとするものである。「会話の下にあるもの」「言葉以前のもの」を、断片的な記述を編み上げるように描いた。劇作では、ドイツの放送局の依頼で書いたラジオ劇『沈黙』(1964年)に続き、『嘘』『イスマ』『美しい』『彼女がそこにいる』『ほんの些細なことで』などを書き、演出家たちの関心を集めた。自伝『子供時代』(1983年)は舞台化され、パリとニューヨークで上演された。1989年には小説『あなたは自分を愛していない』を発表した。亡くなったときも7作目の戯曲に取り組んでいたと語っていたとされる。
同じ年に亡くなった人物
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