伝記
ロベール・ブレッソンは1901年9月25日、フランス中部ピュイ=ド=ドーム県のブロモン=ラモトに生まれた映画監督、脚本家である。父はレオン、母はマリー=エリザベート・クローゼルといい、若いころについてはあまりわかっていない。パリ近郊ソーのラカナル高校で学び、卒業後は絵画に向かった。美術の基礎を教える学校に短期間通ったともされる。写真家としても活動した。のちに、カトリックの信仰、美術、そして捕虜としての体験が、彼の映画に現れる三つの影響として指摘される。著名な写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンとは血縁がない。
映画の世界には、数本の作品に助監督や脚本家として参加して入った。1934年には中編『公共問題』で監督デビューしたが、仕上がりが気に入らず、作品を廃棄してしまったという。第二次世界大戦が始まると軍に入ったが、1940年にドイツ軍の捕虜となり、1年以上収容された。収容先で知り合った司祭から映画の制作を頼まれ、終戦後に『罪の天使たち』を撮った。この時点で、のちの職業俳優を使わない演出を確立したとされる。『ブーローニュの森の貴婦人たち』の後には、ジャン・コクトーらとともに、のちの「カイエ・デュ・シネマ」の母体といえる組織「オブジェクティフ49」を作ったが、のちに袂を分かった。1950年の『田舎司祭の日記』以降は寡作ながら、世界三大映画祭で受賞を重ねた。50年に及ぶ経歴で、長編は13本にとどまり、これは入念な制作の姿勢と、資金調達の困難によるものとされる。
作風は、芝居がかった演技を嫌い、感情を表す職業俳優の人工的な演技を排して、その作品限りの素人を起用し、出演者を「モデル」と呼んだ。音楽はほとんど使わず、感情表現も抑えた。自分の作品を「映画」とは呼ばず、「シネマトグラフ」と総称した。1975年には断章集『シネマトグラフ覚書』を出版し、映画を舞台劇の撮影ではなく、映像と音による新しい言語としてとらえた。一場面を何度も繰り返し撮らせ、「演技」の気配が消えるまで取り除いたといわれる。この手法と音楽を抑えた姿勢は、のちのミニマルな映画に大きな影響を与えた。起用した素人には、マリカ・グリーン、フランソワ・ルテリエ、ドミニク・サンダ、アンヌ・ヴィアゼムスキーらがおり、そのまま映画界に残った者もいる。『湖のランスロ』では、アーサー王伝説から超自然の要素を除き、聖杯探求の失敗後の物語として、ランスロと王妃の不倫やモルドレッドの裏切り、カムランの戦いでの騎士たちの死を軸に据えた。
代表作に『抵抗 死刑囚は逃げた』(1956年)、『スリ』(1959年)、『バルタザールどこへ行く』(1966年)、『少女ムシェット』(1967年)のほか、『ジャンヌ・ダルク裁判』『たぶん悪魔が』などがある。2012年の批評家投票「史上最高の映画」では、七本が選ばれた。ジャン=リュック・ゴダールは「ドストエフスキーがロシアの小説であり、モーツァルトがドイツの音楽であるように、彼はフランス映画そのものだ」と書いた。1983年の『ラルジャン』を最後に、体調不良もあり作品を撮れなかった。1995年に第2回ルネ・クレール賞を受け、1999年12月18日に98歳で死去した。死去の地は、パリとする記述と、パリ南西の自宅とする記述がある。
同じ年に亡くなった人物
- マリオン・ジマー・ブラッドリー (1999年没)
- ジュリオ・エイナウディ (1999年没)
- ガイ・ミッチェル (歌手) (1999年没)
- ゲオルク・トマラ (1999年没)
- ロバート・ショウ (指揮者) (1999年没)
同じ地域に関係する人物
- Marc Athanase Parfait Oeillet Des Murs (1894年没)
- ティボー6世 (ブロワ伯) (1218年没)
- ロベール・エルツ (1915年没)
- アンリ (パリ伯) (1999年没)
- ディアーヌ・ド・ポワチエ (1566年没)